日本人のクリスマス(前編)
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ところで、クリスマスに御祭り騒ぎをする非キリスト教国は日本だけではないようです。世界の約150ヶ国がこの日を国家祝祭日にしているそうですが、そもそもその中には非キリスト教国もあるそうですし、国連総会でクリスマス休暇が全会一致で採択されたりもしたとか。
さて、日本にキリスト教が伝えられたのは十六世紀半ばの事でしたが、言うまでも無くこの時にクリスマスの祭りも持ち込まれています。この時期にはクリスマスはポルトガル語の「ナタラ」という名称で呼ばれており、宣教師たちにより説教がなされた後に参会者に食事が振舞われました。また、聖書の物語を題材にした演劇も催され、それが評判を呼び次第に盛大なものとなっていったようです。しかし徳川期に入りキリスト教が厳しく禁じられ鎖国体制がとられるようになるとナタラも姿を消し、僅かに九州の隠れキリシタンによって「霜月の祝い」「霜月どん」「おたいや」といった儀式として保存されるばかりとなりました。日本伝統の収穫祭である霜月祭りと重なったためこうした呼び名があるそうで、時代が移るにつれて日本民俗信仰と混交し変質していったといわれています。一方、出島に来航したオランダ人たちは普通にクリスマスを祝っていましたが、これに関しては「阿蘭陀冬至」であるとして黙認されていたようです(彼らに関しては、通常のキリスト教礼拝も本来は禁止されていましたが目立たなければ特に問題にはされないのが通例でした)。オランダ人の記録ではこの日を「Kersmis」と記していますし、招待された大田南畝は「牛のかしらを調味したるを角のあるままにて鉢にもりて出す」料理を振舞われたと記しています。因みにこの料理は北欧を中心とした地域でクリスマスに欠かせないとされてている(キリスト教普及以前から冬至祭で出されていた)「ボアーズヘッド」であったろうと想像されています。クリスマスが冬至祭として認識されていたこの事実は、近代に入ってから日本でクリスマスが受容される背景の一つを示しているように思います。
幕末期に西洋諸国と国交が開かれると、開港地において外国人によりクリスマスの風習が再び大っぴらにもたらされるようになります。例えばプロイセンのオイレンブルクは1860年に木に蝋燭・菓子を始め様々な装飾を行ってクリスマスを祝っており、我が国にクリスマス・ツリーが持ち込まれた最初であるとされています。そして明治に入ると多数の「お雇い外国人」が産業・教育の現場で活躍するようになり、周囲の日本人も物珍しさもあって彼らがクリスマスを祝うのに参加したのです。といっても宗教行事だということを薄々察していた程度であり詳細なキリスト教教義を知っていた人は稀でしたから、仏壇の真鍮装飾を差し入れて外国人を困惑させた例もあったようです。また日本人の中にも新島襄や内村鑑三のようにキリスト教に改宗する例も見られるようになり、上流階級を中心にキリスト教色の強い教育を受ける人々も存在したため彼等を中心にクリスマス行事も受容されていきます。例えば明治七年(1874)に受洗し東京第一長老教会に所属した元江戸南町奉行・原胤昭は同年の教会におけるクリスマスに派手な趣向を凝らして参加、戸田忠厚が裃に大小をつけた姿で「サンタクロース」を勤めたそうです。そういえば、サンタクロースが靴下に子供たちへのプレゼントを入れるという習慣もこの時期に入ってきています。翌年には胤昭は自らが設立した原女学校でクリスマスを主催しており、日本人が主催した最初のクリスマスといわれています。もっとも一般世間の間に浸透しているとは言い難く、せいぜいが「耶蘇の祭日」であり「本邦の氏神祭と雛祭と福引を一つにしたる様な慣習」(共に明治十一年「芸術雑誌」)と認識されている程度でした。
変化の兆しが現れるのが明治二十年前後であり、明治十六年に鹿鳴館が建設された事に象徴されるように日本は西洋文明を受容する事で文明国たろうと対外的にアピールしていました。その中で自然とクリスマスを上流階級が受容する機械も以前と比べて増加したのです。明治二十一年に皇太后が福祉バザーをおこなうなど、皇室を始めとする上流婦人の間で慈善事業が次第に広がっていきます。また、欧米への留学生が帰国し、クリスマスの習慣を持ち込んだのも普及に一役買ったといえるでしょう。例えば森鴎外は家庭でクリスマスツリーを飾りプレゼントをする習慣があったといいます。
この頃、クリスマスは外国人にとっては遠い故郷への縁であり日本人にとっては異国趣味への入り口であったといえるでしょう。
この時期のクリスマスに関する事例を挙げていきますと、明治二十五年、若松賤子が「小公子」を翻訳し「皇后陛下明宮殿下御覧済の本、歳暮新歳の贈物」と宣伝された事により、年末に子供へ本をプレゼントする習慣が広まり始めたとされています。また、彼女の夫でキリスト教徒でもある巖本善治が主催する「女学雑誌」がこの頃から十二月号にクリスマス特集を掲載するようになり賤子が明治二十六年に「クリスマス美談」でツリーやサンタクロース、プレゼントについて述べる事でクリスマスについての認知は次第に深められていきます。また、明治二十八年に高田己三が「久里寿満寿」を著し、書中で「クリスマス近けり、クリスマス祝わざる可らず」と述べた上でその由来や歴史、歌やサンタクロース、クリスマスの関連する物語について説明しています。こうした啓蒙活動もあってクリスマスが祝日として認知されると共にその内容も知られるようになっていったのです。明治二十八年には山室軍平らがライト大佐と共に救世軍を結成し社会鍋を始めとする慈善活動に従事するなどキリスト教徒の活動が社会事業にも広まりつつあった事もクリスマス認知に一役買ったことでしょう。明治二十九年には正岡子規が「八人の子供むつまじクリスマス」と詠み「クリスマス」が冬の季語として認められるようになっており、クリスマスがキリスト教徒以外にも広く知られるようになっていることが分かります。また明治三十二年にはアメリカ公使館におけるクリスマスパーティに山県首相・青木外相ら政府高官が公式に出席しており、主要国相手の外交の一環として受容された側面もあったことが窺われます。当時の日本人にとってクリスマスとは西洋文明の象徴であり、これを認知する事で「文明国」であると誇示しようとした側面が強かったのです。
さてキリスト教徒以外にも存在が認知されてきたこの頃から、クリスマスは商業主義・異国趣味といった性格をも帯び始める事となります。銀座に明治屋・丸善・亀屋といった舶来品を扱う商店が軒を連ねるようになると、年末の贈物として洋菓子・文房具・化粧品・衛生用品といった舶来品をプレゼントする習慣が次第に広まっていきます。特に磯野計が創業した明治屋はクリスマスに派手な装飾をする事で宣伝効果を挙げ、これに多くの店が倣って装飾の風習が広まっていきます。中でも明治三十七年に日露戦争での優勢と家屋増築の祝いを兼ねて例年より華やかに装飾をしたため語り草となりました。大正元年に木下利玄が「明治屋のクリスマス飾り灯ともりて煌やかなり粉雪降り出づ」と詠むなど銀座名物として広く知られ、売り上げにも大きく貢献する事になります。また丸善は輸入書籍で知られていましたが、アメリカ読本でクリスマスの知識を広めたりクリスマスカードを発売、更に自社の雑誌「学灯」でも十二月号でクリスマス特集をする事により宣伝効果があったようです。こうした流れに乗って、明治三十六年に森永製菓を創業した森永太一郎は洋菓子普及戦略の一環としてクリスマス商戦を繰り広げます。またライオン歯磨創業者・小林富次郎も歯ブラシ・歯磨き粉の普及や売上上昇のため「サンタクロースのプレゼントはライオン歯磨」という宣伝を盛んに打ったのです。「仁丹」も同様な宣伝戦略によって売上を伸ばした一つでした。森永・ライオン・仁丹が成功した背景には富国強兵のスローガンに沿って栄養改善による体格向上、衛生改善による健康増進を訴える事ができたのも大きかったと考えられます。ともあれ、こうしてクリスマスは「西洋文明」をプレゼントする機会として広く親しまれるようになっていきました。クリスマスはサンタクロースが良い子に玩具などのプレゼントをしてくれる日であるという認識が一般に広がったのもこの時期です。明治三十一年には進藤信義が「さんたくろう」という絵本を出版しており、ロバを従え片手にクリスマスツリーをもう片手に杖を持った三太九郎老人の物語を描いています。現在知られているサンタクロースでなく、ドイツ系のヴァイナハツマンが題材になっているようです。このようにサンタクロースのイメージが統一されているとは必ずしもいえませんでしたが、明治三十九年頃から従来の恵比寿・大黒天に代わりサンタクロースが新聞広告に用いられるようになります。恰幅がよく福神であるという彼らとの共通点も大きかったでしょう。こうした商業主義がクリスマス認知に更に拍車をかけたのは想像に難くありません。
クリスマスプレゼントやサンタクロースが日本人に抵抗無く受容された背景として、類似した風俗が従来から存在していたというのが大きいようです。「年神」「正月様」と呼ばれる神が年末年始に訪れて贈物を配って歩き人々に幸福をもたらすという言い伝えが各地に見られたとか。地方ではこれとサンタクロースの物語を折中してか大晦日に子供の枕元に贈物を入れた「子供福袋」を置く風習が現れるようになりました。
一方、都市部では生活に密着した年中行事は次第に希薄化し、節句や七五三が華美化すると共に学芸会・運動会などの行事が社交・記念の場となっていきます。またこの頃に登場したデパートなどにより宣伝を伴う商戦が盛んになったことも手伝い、この風潮の中でクリスマスは重要な年末の行事として定着していくのです。
以降は、後編にまわします。
<追記>年代間違いを訂正(12/23)、後編へのリンク(12/24)
【参考文献】
クリスマス どうやって日本に定着したか クラウス・クラハト、克美・タテノクラハト 角川書店
(今回はほぼこの本の要約です。ここで述べたのは概略だけですので、日本のクリスマスに興味のある方は一読をお勧めします。)
おはなしおはなし 河合隼雄 朝日新聞社
仏教民俗学 山折哲雄 講談社学術文庫
関連記事:
「クリスマス特別記事―西洋の『センセーション・ノベル』について―」
昨年のクリスマス記事。
「元禄赤穂事件と茶会―戦術的な面から見る―」
これも昨年の年末を意識した記事でした。
「天国・極楽のイメージ ~どんな餌で世界の信者たちは釣られたか~」
宗教がどのように人々をひきつけたかという話。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
クリスマスということで以下にキリスト教関係のレジュメを。
「西洋キリスト教史1」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1997/970516.html)
「西洋キリスト教史2」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1997/971017.html)
「西洋キリスト教史3」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1997/971212.html)
西洋におけるキリスト教の通史ですが、ネット上では中世まで。
「中世の教会と異端」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021018a.html)
「トマス・アクイナス」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1999/991126.html)
「ビザンツ宗教外史 コプト教会史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2004/041015.html)
「分裂する東西キリスト教会」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/s2004/041120d.html)
関連サイト:
「サンタクロースサイト」(http://www.santaclaus.jp/)
グリーンランド国際サンタクロース協会公認サンタクロース、日本代表パラダイス山元氏のサイト。
「明治屋」(http://www.meidi-ya.co.jp/)
「丸善株式会社」(http://www.maruzen.co.jp/top/)
「森永製菓」(http://www.morinaga.co.jp/index.html)
「ライオン株式会社」(http://www.lion.co.jp/index2.htm)
「森下仁丹」(http://www.jintan.co.jp/)
我が国にクリスマスを根付かせ、クリスマス商戦で成長した企業たちです。
「ばか集合」(http://2chart.fc2web.com/)より
「クリスマス中止のお知らせ」
(http://2chart.fc2web.com/2chart/kurichuushi.html)
「楽しいクリスマス」
(http://2chart.fc2web.com/2chart/tanosiikurisumsu.html)
18歳未満は閲覧禁止です。
「【2ch】ニュース速報アワーズ」(http://blog.livedoor.jp/news2chplus/)より
「クリスマスを金儲けに使うのはけしからん byローマ法王」
(http://blog.livedoor.jp/news2chplus/archives/50480086.html)
バチカンはこう言ってるようですけどね…。しかしそれにしても教皇様大人気。