義仲はバカ義経よりはるか上 ~江戸時代のひねくれ源平合戦名将論~ 紹介・随筆『我宿草』
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たぶん源平時代の武将で一番。
それどころか日本の武将で一番で好きです。
ということで、ちょっと義仲について扱います。
一応普段は、文章を世間に向けて公開する以上、ある程度広い範囲に必要とされそうな、ネタとかエロとか概論とかで記事を書くように心がけているのですが、たまには、こういう誰にも望まれなさそうな文章でも良いですよね?
ということで、木曽義仲という男ですが、まず念のため軽く説明すると、源平合戦において、平家の圧倒的巨大勢力に二番手勢力・源頼朝がどう対抗していくかって情勢下、小勢力を駆り立てて異様な軍事的才幹を発揮し、一時とはいえ天下取り候補の一角まで上った、強く賢い傑出した名将。ついでに言うと人柄だって悪くない。
その上、良い感じに色物キャラ。
あと、大夫房覚明みたいな真っ当かつ非凡な知識人を心服させ、軍師として才幹を振るわせてる辺り、武人政治家としても、それなりに悪くない素質を持ってたり。もちろん、知識人いろいろ集めてた頼朝にははるか劣るにせよ。
欠点としては、貴族受けする陰険な教養とか、裏工作に長じた姑息な陰謀家型の知性とかに思いっきり欠ける点くらいでしょうが、むしろそれらに欠けてるからこそ、愛すべき男。
これで、
そういう陰険サイドで彼を補佐できる人物がいれば、もっともっと活躍できたかも知れないのに、
一人もそんな人間に巡り会えず、結局、
瞬間的に華を咲かせただけで終わってしまった。
覚明は優れた軍師だけど、
平清盛をゴミ呼ばわりしたり、比叡山を欲深腹黒と罵ったり、やたらと権威・権力に反発したがる真っ直ぐすぎる口と性格の人物で、寝業師的陰謀家的にねちっこい働きをするには、いかにも性格的に不向き。
おそらく戦略とか、戦略に沿った謀略を繰り出すとかの、表立ったタイプの知性に長けた人物で、教養という点を除けば、義仲と非常に近い方向性の知性の持ち主というべきなんでしょう。義仲も、お口が素直すぎて王様はハダカだと言ってしまうような男ですし。
で、この二人、名将&名軍師の見事なコンビで、鮮やかに平家を打ち破ったものの、貴族の陰謀渦巻く京都に入ったとたん、鳴かず飛ばずで、覚明なんか何やってたのかすら良く分からない状態に陥るんですが、二人揃って寝業師適性ゼロでは、それも当然の結果というかなんというか。
この辺り、覚明の行動がさっぱり辿れなくなるせいで、入京後割りと早くに、覚明は木曾の側近を去ったとか、木曾は覚明の真価を理解できずに側近から追ったとかの見解もあるんですが、似たような脳ミソ性格の持ち主で相性良さそうですし、個人的には互いに簡単に見限ったりしないと思うんですよね。たぶん伝承に値する仕事を何にもできなかっただけではないかと。
まあ、仮に覚明が優れた寝業師で活躍しまくったとしても、平家や頼朝と比べた義仲の本来的な勢力基盤の弱さ・乏しさは如何ともし難く、義仲の最終的な運命を変えることはできなかったような気もしますが。
ところで、この覚明、
『平家物語』の成立に深く関わったとされているのですが、平家物語に、歴史的には一発屋の色物に過ぎない義仲の記述が妙に充実していて、義仲が無教養をバカにされつつも人情味溢れる英雄として大活躍しているのは、ひょっとしてそのお陰ですか?
もしかしたら、覚明は、
義仲を悲劇的な結末から救えなかった入京以後の己の無力さに歯がみしつつ、
義仲を粗野な田舎者とひたすらに蔑む陰険な京都人によって、史上に残る義仲の名が不当に汚されぬよう、一人必死に戦い続けていたのですか?
だとすれば、その思いは叶えられました。
というわけで、以下では、そんな覚明の思いが華を咲かせた一例として、江戸時代の随筆『我宿草』が展開した、義仲論。当時のそして今でも日本最大の大ヒーロー、源義経と義仲を比較して、義仲の方が優れているとした文章を紹介したいと思います。
ふるき太平記に、正成が宿処にて、新田義貞、足利直義、名和長年等会して、古人の合戦を評す。義貞のいわく、軍を得しは義経なるべし。正成がいはく、義経は戦いを得て謀をしらず。敵をしつて味方をしらず。長年がいはく、木曾が軍はいかに。正成がいはく、義仲は謀を知つて軍を得たり。大将の器あつて慮あり。惜しいかな一字をも書かず。一文をも読ざれば、善悪の道理をしらず。直義がいはく、木曾軍を得たりとはいかに。義経に手もろくうたれぬるものをと。正成がいはく、軍の勝負によつて軍の善悪を弁ずるにあらず。漢楚七十余度の合戦に、高祖度毎に利なかりしは、韓信、張良が謀拙く、軍を得ざるにはあらず。ときの至らざるなり。木曾が義経に討れたるは、其積悪を罪するときなれば、いくさの拙きにはあらずと。義貞が云、慮ある木曾、積悪有事はいかに。正成が云、慮は学んでいたるにあらず。生まれ得たる処なり。聖賢のおしへをもつて道理をおこなへば、その慮善となる。盗賊の人の物を奪ふに、希代の謀をなすを見給はずや。木曾も道理をしらざる故、其慮悪と成。関白とならんと云ひしとき、覚明法師が大織冠のすゑならでは成給はずと云に、これを用ひて関白とならず。夷心にもならぬ事はやぶらざるはやさし。此心の木曾なれば、君をなやますを逆心とて、悪の頭とすと知りたらんには、悪行はすまじ。士の色にふけるは耻と知りて、最後の軍に巴をかへすもあはれなり。義経は木曾よりはるかに器量おとりぬべしと。直義がいはく、義経より木曾が器量はいかなる処がまさる。正成がいはく、一字一文をもしらずして、事をまもるこゝろ有。義経は兵書の一巻も読しかども、ことを守るこゝろなし。されば生れ得る処の器は義仲まさるべしと。長年が云、木曾大将の器ありとはいかに。正成がいはく、謀と軍とを得たるとは、大将の器にあらずやと語ければ、義貞以下、これを感じてげる。こゝをもつて思に、世の人は義経にならぶ軍の人はあらじとぞ思ふに、楠の評を見れば異なるが、正成は貴ぶにあまりあるにや。
(『日本随筆大成<第三期>9』吉川弘文館 162、163頁)
<訳>
古い太平記の中では、楠木正成の宿所において、新田義貞、足利直義、名和長年らが会合して、古人の合戦を論評している。義貞は言った、「戦いで活躍したのは義経である」。正成は言った、「義経は戦いで活躍はしたが知略に欠ける。敵のことは理解できたが、味方のことを理解することができなかった」。長年が言った、「木曽の戦いはどう評価する?」。正成が言った、「義仲は知略によって、戦いで活躍した。大将の器量があって思慮も備わっている。残念なことに字を書くことができない。文を読んだこともない、というわけで善悪の道理を知ることがなかった」。直義が言った、「木曾が戦いで活躍したとはどういうことか。義経に簡単に打ち破られたではないか」と。正成が言った、「戦いの勝敗のみによって戦いでの働きを論じるものではない。漢楚七十度の合戦で、高祖が戦うたびに戦果がなかったのは、韓信、張良の知略が劣って、活躍できなかったわけではない。時機に恵まれなかったのである。木曾が義経に討たれたのは、その積もった悪事が罰される時が到来しただけであるから、軍才に劣って討たれたのではない」と。義貞が言った、「思慮の備わった木曾が悪事を積もらせたのはどういうことか?」。正成が言った、「思慮は学習によって身に付くものではない。天性のものである。聖賢の教えを学んで道理を行えば、その思慮が善行として発揮される。盗賊が人の物を奪うのに、希代の知略を発揮するのを知らないのか?木曾は道理をしらないため、其の思慮が悪事に発揮されたのである。関白になろうとしたとき、覚明法師が藤原鎌足の子孫でなければなってはいけないと言い、これを聞き入れて関白と成らなかった。粗野に育てられた精神なのに、してはならないことをしないのは健気である。このような心を持った木曾であれば、帝を悩ませることを逆心といって、悪の筆頭であると知っていれば、そのような悪行はしなかったであろう。武士が色にふけるのは恥であると知って、最後の戦いで巴を去らせたのも立派である。義経は木曾よりもはるかに器量が劣っている」と。直義が言った、「義経より木曾の器量が勝るというのはどの点のことか?」。正成が言った、「一字一文も知らないのに、道理を守る心を持っている。義経は兵書の一巻も読んでいたようだが、道理を守る心を持っていない。それならば生まれもっての器量は義仲が勝っている」と。長年が言った、「木曾に大将の器量があるとはどういうことか?」。正成が答えて、「知略を備え戦で活躍したのは、大将の器量があるということではないか」と語れば、義貞以下、これに感心した。これを見て考えるに、世の人は義経に並ぶ武将はいないと考えているが、楠木の評価を見れば異なることを言っていて、正成の評価こそはるかに尊重すべきではないか。
ということで、義仲は義経よりはるか上。思慮もなく突っ走って偶々勝利しただけの義経より優れた武将、と主張しています。ちなみにこの随筆は太田道灌の書とされています。太田道灌が、楠木正成の言を引き、源義経と木曽義仲の比較論が行われる。なんか名将そろい踏みな凄く豪華で御機嫌な話です。
まあ太田道灌が作者というのはあきらかな作り話で、ふるき太平記とかいうありもない書を引いているとか言われてるんですけどね。
なお、木曾よりはるか下とされる義経を論じた箇所も紹介しておくと、
源の義経は名高き人なれども、道に疎ければ物の理をしらず。理をしらざれば耻をしらず。大義をおもひ立ちて奥州へ下るに、たのめる商人の財宝をとらんとて、盗賊共多く入たるに、義経が居ながら防がざるは耻とおもひて、身命捨て防ぐ。天下に義兵をおこす志あるものは、左程の小事を耻とおもひ身を捨つるは、却て耻ならずや。義経また身を捨て弓を取りて、名の為にすといへり。ゆみの弱きこと敵にしらるゝは、大なる耻とおもふや。大将としては謀にかしこく戦をよくし、国を治るを良将とす。色を重んじ政に懈り、匹夫の勇をなすを悪将とす。これ大なる耻、末代の嘲りを招く媒なり。人の重んずるは命なり。命を捨れども時と義を知ずして死するは、人の道に非ず。義経、耻の為名のために命をかろんずれども、却て耻をなし名をながす。これを無学の人と云。
(『同書』 171頁)
<訳>
源義経は名高い人であるが、人間としての資質に欠けているから道理を知らない。道理を知らないから恥も知らない。大義を思い立って奥州に下った際、付いていった商人の財宝を取ろうとして、盗賊が多く押し入ってきたところ、義経がいながら阻止できないのは恥と思って、身命を捨てて防戦した。天下に義兵を起ことうという志を持つ者が、その程度の小事を恥と思って身を捨てるのは、却ってそのほうが恥ではないか。義経はまた身を捨てて弓を拾い、名誉のためにしたと言った。弓の弱いことを敵に知られるのは、大いなる恥と思ったのだとか。大将としては知略に優れ巧妙に戦い、国を平定する者を良将とする。色を重んじて、政を怠り、匹夫の勇を奮うのを悪将とする。これこそ大いなる恥、末代までの嘲りを招く行為ではないか。人の重んじるべきは命である。その大切な命を捨てる際にふさわしい時と大義を知らぬまま無駄死にするのは、人の道ではない。義経は、恥のため名誉のために命を軽んじているが、却って恥をかき名誉を失っている。このような男をバカという。
或人の云、正成が義経を評して、敵を知つて味方をしらずと云は何ぞや。答へて云、正成がいへるは、梶原は能謀を得たり。義経はよく戦いを得たりとあり。梶原、逆櫓を立てんと云し事、勇を失ふて云にはあらず。義経は是を無勇と云て、憤を含めるは味方を知らざるなり。されども其の軍に利を
失はざるは、能敵戦を得たる故なるべし。
(『同書』 179頁)
<訳>
ある人が言った、正成が義経を評して、「敵のことは理解できたが、味方のことを理解することができなかった」と言ったのはどういうことか?答えて言うと、正成が言うに、「梶原景時は知略を備えていた。だが義経はそれを見抜いて使いこなすことも出来ず、運良く戦で大活躍できただけである」とのことである。梶原が逆櫓を立てようと言ったのは、勇気が無くて言ったのではない。ところが義経がこれを勇気が無いと言って、腹を立てたのは、味方のことを理解することができなかったのである。それでも戦果が挙がったのは、敵を知って戦うことはできたということである。
義仲と覚明のやりとりを初めとする個々のエピソードの解釈とか、全体的に妙に道徳臭いところとか、多少、個人的に気に入らないところはありますが、全体として結構評価すべき面白い主張をしてるんではないかと思います。
参考資料
『日本随筆大成<第三期>9』吉川弘文館
下出積与著『日本の武将 6 木曽義仲』
上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実 上』 塙新書
三浦周行著『新編 歴史と人物』 岩波文庫
上杉和彦著『戦争の日本史6 源平の争乱』吉川弘文館
『平家物語』高橋貞一校注 講談社文庫
『随筆辞典 解題編』東京堂出版
『世界大百科事典 第2版』平凡社
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http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020510a.html
書き忘れていた参考資料を追加。入京後の覚明の行動がさっぱり辿れなくなることについての一文を追加。(6月27日)
(以下2010年6月26日加筆)
木曽義仲については、
よろしければ、社会評論社『ダメ人間の日本史』
(「醍醐天皇 藤原伊尹 木曽義仲 恋の時代の平安朝の歪んだ恋の虜たち ~平安ロリコン英雄伝~」収録)
もご参照ください。