日本ブルマー史概説 ~縮み消えゆくブルマーの100年史~ 初めは袴の如く、最後はパンツの様に
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現代では、体にピッタリ張り付いて非常に短い、パンツ様の形状で、紺色とかの濃色が一般的。
結果、脚とお尻の女性的なラインを鮮やかな色彩のコントラストで巧みに強調する健康的かつエロチックな可愛いコスチュームとして、マンガとかゲームなどのフィクション世界で根強い不健康な人気を誇っています。
今回は、そんなブルマーの日本への伝来および日本における盛衰の歴史を簡単に見ておきます。
1 前史 ブルマーが日本に至るまで
このブルマーなる衣裳が誕生したのは、1848年、アメリカのエリザベス・スミス・ミラー夫人の発明によります。トルコのハーレム・スカートすなわち中東の女性の履くだぶついた長ズボンに着想を得た夫人は、足首の辺りで裾を絞ったヒダ入りの緩やかな長ズボンを発案したのです。
そして、1851年、アメリカの女権拡張論者アメリア・ジェンクス・ブルーマー夫人が、窮屈なコルセットや地面にこすれる長大なスカート等によって身動きを阻まれていた当時の上中流女性の衣服を軽快に合理化してその運動性を高めようと、膝丈のスカートに、裾を絞ったダブダブの長ズボンすなわちブルーマーを組み合わせて履くコスチュームをロンドンで発表します。ブルマーの名称はこのことに由来しているわけです。
とはいえ、このブルマー、すんなり社会に受け入れられたわけではなく、男性のものであるズボン型の履き物を女性に着用させ、女性を男性化する滑稽で不道徳な衣裳として社会の激しい反発、軽蔑、嘲笑を受けることになります。
そして、そんな逆境にもめげずブルーマー夫人やブルマー着用運動家の女性はよく頑張ってブルマーを普及させたと、ここから真っ直ぐで熱血で麗しいストーリーを描きたくもなりますが、事態はそんな単純ではなく、ブルマーの合理性に目を付けたロンドンのビアホール経営者が全従業員にブルマー着用させたところ、労働者階級と間違えられるのを恐れたブルマー支持者達は慌ててブルマーを脱ぎ捨てていますし、ブルーマー夫人自身のほうも風でスカートが舞い上がり脚のラインが見えてしまうことにとまどいを感じて失速する始末。
そんなこんなで、結局ブルマー運動は10年持たずに消滅してしまいます。
ですが、ブルマー運動が失敗しても、ブルマーの名は亡びませんでした。ブルマーの名は、様々なズボン型の衣服、すなわちディヴァイディッド・スカートや、1880年代以降流行したサイクリングで着用するニッカーボッカー(膝下まできた裾をバンドでくくったヒダ入り半ズボン)、ふくらんだ二股の下着の名称として、生き残ります。
そして、そんな中、女子の学校における体操服としても、ブルマー型の衣裳が登場します。
それがブルマーという名で導入されたのかどうかは、今回参考にした諸書からはよく分からないのですが、上で見たように、ブルマーの名はかなり幅広く使われていたようなので、目にした人はおそらくそれらをブルマーとして認識したのではないかと思います。
具体的には、イギリスでは、1887年に女子校セント・レオナルド校がニッカーボッカーを採用しています。そしてなにより重要なのは、アメリカで1880年代に、体育教育家ダッドリー・アレン・サージェントによって設立された私設のサージェント・スクール。ここで、セーラー服と、膝辺りまでの長さで裾を絞ってヒダの入った膨らんだ半ズボンが女子体操服として採用され、まもなく、これが日本にも伝えられ、日本のブルマー史が始まることになるのです。
2 日本ブルマー史前期 ブルマー伝来 女子体育の発展のために (1900年代~20年代)
日本にブルマーが導入されたのは20世紀初めのことです。
女子体育研究のためアメリカに留学して1903年帰国した井口あくりが、アメリカの体操服を模して、セーラー服と、膝辺りまで来る裾を絞った膨らんだ半ズボン型のブルマーを組み合わせた体操服を日本女子教育界に提案し、これを女子高等師範学校の体操服として着用させてもいます。
とはいえ、これは一部の先覚者によって引き起こされた局所的な先鋭的試みに過ぎず、この現象を社会全体から見ると、いわば、ただの色物として完全に社会的に笑殺されたに過ぎません。
当時の日本人にとっても、ズボン型の衣服は男性が着用する物であり、一般的な意識として、女性がそのような格好をするのは滑稽あるいは不快でしかなかったのです。
例えば、風刺雑誌『滑稽新聞』は1905年、この服装で体操する女生徒の有様を醜女の寄合、夜這の練習、亭主を押さえ附ける練習とあざ笑っているし、他にこの服装を採用しようという動きはほとんどなかったのです。
なお、この時点でブルマーがブルマーと呼ばれていたのかどうかは今回参考にした諸書からはよく分かりません。どうも井上は、この頃、ブルマーを袴と表記していたようなので、ブルマーの名称はまだ導入されていなかったのかも知れません。ちなみに、雑誌『女学世界』では1922年に「簡単な婦人ブルームの作り方」なる記事が掲載されていたらしいので、遅くとも1922年にはブルマーの名が登場していたと言えます。
3 日本ブルマー史中期 普及とともに縮み行くブルマー 女子体育の発展につれて (1920年代~60年代半ば)
そういうわけで、真にブルマーが日本に導入されたと言えるのは、1920年代に入ってのこととなります。
この頃までに女子の運動が大きく普及するとともに、勝敗を賭けての競技熱も高揚、これらを背景に体操服の機能性が追求され、ブルマーやショートパンツ(裾の絞りが無い半ズボン型スポーツウェア)が普及することになりました。
もちろん、この頃でも、新奇な洋式体操服への社会的な抵抗が無かったわけではなく、例えば、女子が脚部を人前にさらけ出すことに対して反発した大阪の私立女学校連盟が1925年に対外競技禁止の申し合わせを行うなどの例が見られます。
しかし、むしろその一方で、ブルマーやショートパンツ着用の女子運動選手がアイドル化していることの方が注目に値します。なにせ、当時の女学生雑誌には運動選手とそれを崇敬する生徒の間のロマンスを描いた小説が掲載されるほどであったのですから。
もはや、社会全体でブルマーを笑殺する時代は去り、ブルマー姿でヒーローとなれる時代が到来したのです。
戦後に入った頃の下半身用体操着の主流は、いわゆる「ちょうちんブルマー」でした。腰回りのゆったりした、太股上部の足の付け根近くで絞ったヒダ入りのブルマーで、ブカブカに丸く膨れ上がったパンツとでもいうべき形状です。
いつの間に、このようにブルマーの丈が短くなってしまったのかははっきりさせることができなかったのですが、時代と共に丈が短くなっていったのは確かなようです。ちょうちんブルマーは戦前から既に存在した形式とも言われていて、速くも1920年代の内に既に太股を曝したブルマー姿の写真が残ってますし、学校によっては明治から続く伝統であったとの証言も見られる(明治というのは少々信じがたいですが)ので、普及の程度はともかく、割に早い時期から運動性の向上を模索して登場し、徐々に勢力拡大していったのだと思われます。
なお、材質は伸縮性のない木綿製で、色は一般的には紺色です。
ところで、戦後、ちょうちんブルマーが下半身用体操着の主流であった時代はそれほど長くありません。
ブルマーがふくらんでいるおかげで足が細く見える、かわいらしいといった肯定的な評価の一方、アイロンがけ等ヒダの手入れが大変、伸縮性がなく動きにくい、かぼちゃみたいでカッコ悪いとの否定的意見があり、これよりは欠点の少ないショートパンツによって1950年代半ばに下半身用体操着の中心的地位を奪われたのです。
そして、傍流体操服として生き残ったブルマーもヒダが縮んで、ゆとりのあるパンツといった姿に変わっていき、動きやすさの追求の果てゆとりがさらに縮小、かなりの程度体にフィットして体の線が見えるほどになっていきます。
なお、これらの変化の背後には、戦後の物不足の折、布地が少なくて済む方が好ましいとの発想もあったのではないかと言われています。
さて、新たに日本女子体操服界の中心勢力となったショートパンツはわりと人気が高く、おしゃれで都会的、スポーツマンらしさがある、誇らしいなど肯定的な評価が多数です。とはいえ、通常白色であったせいで汚れが目立ちとりわけ生理の時に困る、下にゴムが入っていないせいで下着が見える、お尻の縫い目が破れるという欠点があり、またちょうちんブルマーと同じく伸縮性が無い木綿製で動きにくいという欠点をも抱えていました。そのため、ショートパンツ時代もそれほど長くは続かず、1960年代半ばには、我々にとって一般的な体にピッタリとフィットするタイプの化学繊維製の伸縮するブルマーに取って代わられることになります。
ところで、ショートパンツから次世代ブルマーへの下半身用体操服の入れ替わりに関連して、体操服を着用する女子生徒の間で注目すべき動きがあります。
なんと、女子生徒の間に自主的なショートパンツ改造を行う者がおり、それによって次世代のブルマーの萌芽とでもいうべきショートパンツが生み出されているのです。すなわち、ショートパンツの裾を折り曲げて短くする、ショートパンツの両脇を縫って細くし体にぴったりフィットさせるなど。
次世代のブルマーは、化学繊維製で伸縮し体にピッタリとフィットするタイプで、なおかつ足の付け根までしかない短さであり、いわばパンツの上のパンツといった形態をとるのですが、これらのショートパンツ改造の方向性は確かにパンツ型ブルマーへと向かう新時代の女性の身体意識を示しているのです。
4 日本ブルマー史後期 ブルマーの栄光とその彼方 機能性を追い求めた縮小の果てに (1960年代半ば~90年代)
ようやく我々のイメージするブルマー、伸縮性ある化学繊維製で体にぴったりフィットする、短く足の付け根までしかないパンツ型ブルマーの登場ということになります。
このブルマー導入の一大契機となったのは、一般的に1964年の東京オリンピックとされています。そして、体操服メーカーに対する調査を行っても、確かに、日本におけるこのブルマーの導入は、東京オリンピック以後と見るしかないとの結果が出たそうです。
東京オリンピックにおいては日本の女子バレーチームが大活躍しバレーボールに国民の視線を大いに集めたのですが、そこではゆるめのブルマーを履く日本選手の傍らに、外国選手がピッタリしたブルマー姿で登場、鮮烈な印象を残すことになりました。そして、この「機能的でファッショナブルなブルマーは、このあと日本選手にも受け入れられるようになる。」(『ブルマーの社会史 女子体育へのまなざし』青弓社 171頁)。
もちろん、バレーボール熱に浮かされた一般国民にも影響が及ぶことは避けられません。そのため60年代半ばからは、このパンツ型ブルマーが、下半身用体操服の主流になったのです。
なお、1965年には日本の繊維生産量に占める化学繊維の割合が初めて五割を超えるのですが、このような当時の化学繊維生産の発達も、伸縮性のある体にフィットするブルマーの普及を後押しした事情と言えます。
ところで、このパンツ型ブルマーへの変革はとりあえずはオリンピックの影響によるものと見るべきであるのですが、だからといって、この現象をそれのみで理解してただの外国かぶれと捉えるべきでもないでしょう。上で見たとおり、日本ブルマーは運動性向上や手入れのしやすさを目指して既にゆとりのあるパンツ型とでもいうべき形状に達しており、形状面でのパンツ型への接近傾向はとっくに生じていました。また、ショートパンツ流行下における改造ショートパンツにパンツ型ブルマーに繋がる方向性・身体意識が示されていたことも、既に見たとおりです。
なるほど、東京オリンピックにおける外国人バレー選手の影響がパンツ型ブルマーの普及に絶大な役割を果たしたのは確かでしょうが、仮にオリンピックが無かったとしても、多少の遅れや普及の程度の差こそあれ、歴史の必然としてパンツ型ブルマーは日本に導入されたはずです。日本国内における化学繊維生産の発達、体操服の機能性追求、女性の身体意識の変容と、あらゆる要素がパンツ型ブルマーの登場を準備していたのですから。
機能的でファッショナブルなものとして登場したこのパンツ型ブルマーですが、その後、
1993年のブルセラ・ブーム(女学生から買い取った中古のブルマーやセーラー服を販売して好事家のフェティシズムに供する特殊エロのお店が流行したこと)以降、露出が多すぎる、体の線が見えるなどの、(要するにエロ過ぎるという内容の)批判意見が勢いづき、体操服としては90年代の内に急速に壊滅状態に陥り、ハーフパンツやクォーターパンツと呼ばれるかつてのショートパンツに似た裾を絞らない半ズボン型下半身用体操服に取って代わられることになりました。
5 ブルマー考察
ところで、ブルマーがエロゲーその他の仮想世界に活躍の場を完全に移した今、ブルマーが体操服として採用されて一種の権力として万人の上に君臨した時代をはるかに離れたこの時代、
今こそ、ブルマーのファッション性や萌えを、どこかの誰かの利害に毒されることなく、冷静に、物語ることの出来る時代がやって来たと言えるのではないでしょうか。
というわけで、最後に、ブルマーが、一般名詞としての「女性」にとってどういうものかではなく、個人の着用する一個の装飾品としていかなる美点を持つのか、『ブルマーの社会史 女子体育へのまなざし』(青弓社)で集められた日本ブルマー史の証人達の証言を元に、検討しておこうと思います。
お尻にフィットするパンツ型ブルマーを着用した女性の意見としては圧倒的に反ブルマー派が多数なのですが、その一方でかっこいい、おしゃれ、すてきなどの評価を下した人もいます。そのような評価の中から発言内容が具体的な物を選び出すと、
バレー部やバスケット部で背がすごく高く足が細い人は、ブルマー姿がすごくすてきでした(前掲書 209頁)
カモシカのような足の長い先輩がとてもカッコよく短めのブルマーをはきこなし、みんなの憧れの的でした(前掲書 213~214頁)
とのこと。
あと伸縮性のない体にフィットするタイプの、我々が通常イメージするブルマーではないもののそれに近いブルマーについて、
私も細かったので見ばえもよく、ブルマーは好きでした(前掲書 206頁)
との証言もあります。
これらのことから分かるのは、
ブルマーは脚が長くて細いスラッと伸びやかな特別綺麗な体の美しさ、ズングリと低身長短足な体の日本人にとって例外的な体型の持ち主の美しさを際だたせる
ということ。
つまり、
脚を大胆に曝すことによって、単に肌を曝すに終わらず、特異な美しさを見せつけることが出来る人、
脚の肌を大きく曝すというある種の不名誉を特異な美しさの名誉で圧倒することができる、ごく一部の特に恵まれた人にとってのみ、ブルマーは好ましい存在ということ。
この他、容姿に恵まれなくとも羞恥心が鈍感な人とか、機能性最重視の超合理的な人とか、そもそも容姿や服装のことなんか歯牙にも掛けない豪傑なお姐さんとかも、ブルマーが良いもしくはブルマーで良いと考えられるんでしょうが、
ところが特に恵まれた容姿ではないし、その上その事実を無視することのできない羞恥心なり劣等感なりは持っているという大多数の平凡人にとっては、ブルマーは何のメリットも無しに肌を剥かれて羞恥心と劣等感を煽られるだけに終わる、悪夢の衣裳。
オリンピックの国民的狂熱とか、
女性が自分の肌と体を発見した性的解放初期の嬉し恥ずかしドキドキ気分(60年代はミニスカブームの余り首相夫人が60超えた身でミニスカ外国訪問をした狂気の時代)とか、
そういった夢のような熱気が去って冷静さを取り戻した後の時代においては、
夢から覚めた綺麗でも無恥でもない大多数の標準的日本人女性に敵視されてブルマーが滅亡へと向かったのも、ある意味当然と言えるでしょう。
ってゆーか、よく30年も持ったものです。
ちなみに、1995年8月に産経新聞が女子中高生百人に体操服の希望調査をした際には、「「短パン型」が八十一人、「どちらでもよい」が十人、「ブルマー」は九人だった」(前掲書 240頁)そうですよ。
変な60年代的熱気を抜きにして、冷静な目で見れば、ブルマーが似合う人、ブルマーが似合うと錯覚してる人、機能性が大事な人、衣服なんかどうでも良い人、これら体型美人と変人を併せて女性中の2割にしか届かないってことでしょうか。
ブルマーは無数の普通人で構成されたリアルワールド向きじゃない衣服ですね。
でも、変人とか、スラッとスリムな美少女とか、そういう異常なパーツばかりで構成された二次元フィクションワールドでは、きっとブルマーは不滅です。
さらけ出された瑞々しい長い脚に、濃色のブルマーで強調された丸く形の良いお尻、ブルマーの濃色と肌や上着の白さの鮮やかなコントラストによるメリハリある画面構成、そういった要素で二次元美少女達はまだまだこれからも無防備に飾られ続けて行くに違いありません。
参考資料
高橋一郎/萩原美代子/谷口雅子/掛水通子/角田聡美著『ブルマーの社会史 女子体育へのまなざし』青弓社
『週刊朝日百科 世界の歴史99 18世紀の世界3 生活 働く女たち』朝日新聞社
能澤慧子著『20世紀モード』講談社
戸矢理衣奈著『下着の誕生』講談社
青木英夫著『下着の流行史』雄山閣
青木英夫著『下着の文化史』雄山閣
丹野郁著『服飾の世界史』白水社
『スーパー・ニッポニカ Professional』小学館
『Encyclopaedia Britannica, 2007』
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書き損じを修正;○エリザベス・スミス・ミラー夫人←×エリベス・スミス・ミラー夫人(7月25日)