諸君、私は軍隊が好きだ~徴兵制時代の軍隊への意外な視線~
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しかし意外なもので、少なくとも第一次大戦の頃には様子が違ったようです。総力戦時代の戦闘の悲惨さを直視しそこにこそ喜悦を見出す変な作家さんがいたのは特殊な一事例と見なす事が出来るにしても、世間一般でも戦場生活の方がそれまでより物質的に豊かで戦友との友情なんかで精神的にも満たされていたので戦後にも戦時中を懐かしむ人たちが結構いたというのは、現在からすれば疑わしく思えてしまいます。
しかし、信じられない事に我が国でもむしろ軍隊生活を悪くないものだと考える人もいたという話もあります。戦前の東北地方や九州地方には貧困に苦しむ人々が少なからずいました。そんな彼等が軍隊に入ると、まず革靴を支給される事に驚き白米が食べられる事に感激したそうです。そして陸軍のメニューは最盛期にはフランスをモデルに三千種類に及んだそうで、平和時には天長節(天皇誕生日)にカツ丼・正月に餅といった臨時の御馳走も出たとか。少々怪しくなってきたとは言え当時と比べて豊かな生活を享受している今日の我々にすれば、これらのメニューもどうと言う事はないでしょうが彼等は「『世の中に、こんなおいしいものがあったか』と驚き、『天皇陛下様のおかげで、こんなものが食える』と感動する」(日下公人『人間はなぜ戦争をするのか』 三笠書房 131頁)といった具合で軍に忠誠を誓ったとか。東北・九州の兵が強かった一因はそこにあったのではないかとも言われているようです。
軍隊の方が生活レベルがマシなほど貧しいとしたら、確かにうなずける話ですね。とはいえ、上述の話は末尾に「日本はどうすればあの戦争に勝てたか」なんて仮装戦記めいた話をしている「侵略について反省してない」右派的な本由来なので信用できない、という方もおられるでしょう。そこで、もう一つ別のところから似たような話を持って来る事にします。
推理小説大国イギリスにおいて、代表的な女流推理作家といえばアガサ・クリスティの名が挙がるのではないでしょうか。彼女は「ミステリの女王」と呼ばれ、突飛奇抜なトリックより人間の性格に注目し時にはロマンスも織り込んだ作風で晩年に至るまで精力的に執筆を続けました。代表作は「アクロイド殺人事件」「オリエント急行の殺人」「そして誰もいなくなった」などで、いずれも推理小説史上に名を残す傑作とされています。ベルギー人の小男エルキュール・ポワロやセント・メアリ・ミード村の老嬢ミス・ジェーン・マープルといった名探偵たちの生みの親、と申しあげた方が通りがよいかもしれません。
「ABC殺人事件」は1935年に発表されたクリスティ中期を代表する作品。予告状の通りにABC順の地名でABC順の名の人間が次々に殺され現場にABC鉄道案内(当時を代表する鉄道時刻表)が残される怪事件に
ポワロはどう立ち向かうのか。結末が気になる方は小説を読んでいただくとして、ここではポワロがとある人物から話を聞いている場面に注目しましょう。その人物はそれまでパッとしない人生を送ってきたようで、
「だれもがこぞってわたしに敵対する―いつだってそうでした」(クリスティ『ABC殺人事件』創元推理文庫 353頁)
「わたしはとうてい世に頭角をあらわすような人物じゃない。いつだってばかなことばかりして―物笑いの種になってきた。おまけに臆病で―人間がこわかった。学校でもいじめられてばかりいましたからね。」
「しかもダメな生徒だったし―遊びでも、勉強でも、なにをやらせてもうまくいかない」
「商業専門学校へ進んでからも、あいかわらずわたしは劣等生だった。タイプでも、速記でも、覚えるのには他人の倍も時間がかかるし。でも、それでも自分では、ばかだ、出来損ないだという気はしなかったんです」(いずれも同書 354頁)
「なんというか、他人はみんなわたしをばかだと思っているらしい、そんな感情なんです。ひどく無力感に襲われるものですよ、これは。やがて勤めに出るようになってからも、事情はいっこう変わりませんでした。」(同書 355頁)
と述懐しています。思い出したくない過去、それに伴う劣等感や被害妄想…、こちらの心の古傷も抉ってくるような身につまされる話です。そんな彼も戦争体験をしているわけですが(時代的に第一次大戦と思われます)、
「それがね、軍隊は楽しかったんです、わたしには。問題はそこなんですよ。戦場へ出て、はじめてわたしは、自分がすこしも他人に劣らない人間だとさとりました。軍隊では、だれもがおなじ立場だった。わたしでも、みんなとおなじに力を発揮できるんです」
「ところが、それもつかのま、やがて私は頭に負傷しました。ごく軽い傷でしたが、それが原因で、発作を起こすということが知れたんです…むろん、自分ではとうから気づいていましたよ―ときどき自分がどこにいるのか、なにをしているのか、わからなくなることがある。一時的な記憶喪失、とでも言いますか。それで気を失ったことも、一度か二度あります。しかしわたしとしては、そのせいで除隊を強いられるなんて、どうしても正当とは思えない。ええそうです、不当ですよ、これは」
(いずれも同書 355頁)
といった具合。軍隊は厳しく生活が管理されますが、逆に言えばそれをこなしてしまえば全ての人が同じに働けるという見方もできるのかもしれません。いずれにしても、この人物にとってはこれまでにない自己実現の場であった訳ですね。後世の目からすれば、彼は頭部への戦傷が原因となったのかてんかん発作を起こすようになったとおぼしく戦争の犠牲者と考えられる訳ですが、彼自身は戦場からはずされた事を「不当」とまでいって憤っています。ところで、この戦争が楽しかった云々の件はNHKアニメ「アガサ・クリスティーの名探偵ポワロとマープル」では削除されていました。気まずいですもんね、子供に見せるには。
それにしても、平和な社会ではダメ人間として蔑まれてきた人間にしてみれば、全員が「鉄砲玉」として命を捨てにいかされる戦場すらも「皆と平等に扱われる」分だけまし(「平等に価値がない」のだとしても)、という事がありうるわけですね。「ABC殺人事件」はあくまでフィクション作品ですが、作者による当時の社会や人間への観察を反映していますので一定の信頼性があるのではないかと思います。それでも念のために実在人物の例を挙げておくと、あの独裁者ヒトラーも世間から認められず劣等感を溜め込む人生を送った末に第一次大戦の戦場で心地よい居場所を見つけた人物で、「平凡な銃後の生活よりも、刺激にみちた、厳格ではあるが、考えようによっては気ままな前線生活のほうが、彼の気分に合っていたようである。戦友愛が重んぜられ、一種の平等生活が実施される『塹壕の社会主義』は、その意味で彼の気に入っていた。」(村瀬興雄『アドルフ・ヒトラー』中公新書 157頁)なんて評されています。
日々の生活がままならないくらい貧しかったり、周囲の人間から見下されて劣等感と共に生きる惨めな人生を余儀なくされる人たちにとっては、「戦争の方がマシ」という事がありうるのはどうやら間違いなさそうです。してみると、「戦争は嫌だ」「兵隊には行きたくない」と思えるという事はそれだけ日常生活が幸せだ、といえるのかもしれません。何だかなあ、と思わされる話ですね。そういえば、数年前に負け組としての人生しか待っていないのなら失うもののない人間として皆が平等に危険となる戦争の方がましかもしれないといった文章が話題を呼んだ記憶があります。
「深夜のシマネコ」(http://t-job.vis.ne.jp/)より
「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」
(http://t-job.vis.ne.jp/base/maruyama.html)
現代日本も貧困と過剰な社会的非難などに苦しむ若年層を中心に「戦争の方がマシ」という階層を生み出しつつあるのでしょうか。軍靴の音が聞こえる、といった類の事を安易には言いたくないですが、不安にはなりますねえ…。
【参考文献】
日本の歴史を解く100話 吉村武彦 文英堂
人間はなぜ戦争をするのか 日下公人 三笠書房
ABC殺人事件 アガサ・クリスティ 深町眞理子訳 創元推理文庫
アガサ・クリスティーの名探偵ポワロとマープル(1)ABC殺人事件 大橋志吉脚本 石川森彦画 NHK出版コミックス
アドルフ・ヒトラー 村瀬興雄著 中公新書
日本大百科全書 小学館
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「若者 vs 年配者 in『今昔物語集』 ~老人は人を食う鬼である~ 悪老人の若者いじめに昔の人も苦しんだ」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「西洋軍事史」(当ブログ内に移転しました)
(http://trushnote.exblog.jp/14455214/)
「オットー・ヒンツェ『国家組織と軍隊組織』」(当ブログ内に移転しました)
(http://trushnote.exblog.jp/14589837/)
「『軍事史概説 戦略と戦術の東西文明五千年史』概要」(当ブログ内に移転しました)
(http://trushnote.exblog.jp/14455184/)
「西洋民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021108.html)
「引きこもりニート列伝その11 ヒトラー」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet11.html)
関連サイト:
「クリスティー・タイム」(http://www.hayakawa-online.co.jp/christie/)
早川書房による日本のクリスティ公式サイトです。
「『名探偵ポワロ』データベース」(http://www5f.biglobe.ne.jp/~hokotate/poirot/index.html)
デビッド・スーシェ演じるポワロは非常なはまり役だと思います。
「それにつけても金のほしさよ」(http://snudge.blog38.fc2.com/)より
「やる夫がフューラーになるようです 第2章 やる夫の兵士奮闘編」
(http://snudge.blog38.fc2.com/blog-entry-210.html)
ヒトラーの兵士時代です。
「深夜のシマネコ」(http://t-job.vis.ne.jp/)より
「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」
(http://t-job.vis.ne.jp/base/maruyama.html)
「けっきょく、「自己責任」 ですか 続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」「応答」を読んで──」
(http://t-job.vis.ne.jp/base/maruyama2.html)
「負け組」にとって、「自己責任」の名の下で惨めな死に追いやられるより「お国のため」という「名誉」を与えられた「戦死」の方がまし、という論旨。
リンクを変更(2010年12月7日、16日)