同性愛は一般的にどう見られてきたか~日本の伝統的同性愛観について~
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「<過去記事紹介>日本的、保守的に同性愛を見る~ウホッ!いい保守派…~」
この記事に関する「はてなブックマーク」の方で「伝統的に同性愛があることと、同性愛が一般的にどう見られているか、ってのは分けて考えたほうがいい気がする。キリスト教圏でもこっそりアッーなことやってきた伝統って多分あるんじゃなかろうか。」という御意見をいただきました。もっともな内容だと思います。という訳で、今回は伝統的に「一般的にどう見られているか」について日本史を中心にもう少しつめてみたいと思います。キリスト教圏については、手元に資料がないのでここでは余り触れない事にします。
まず「キリスト教圏でもこっそりアッーなことやってきた伝統って多分ある」というのはその通りでして、過去記事を振り返っても
「バチカンの危機~「悪魔じゃ、悪魔のしわざじゃ!」~」
「西洋史における聖職者の性欲処理について」
辺りからはカトリックの聖職者も裏でこっそりお楽しみだったであろう事が推定できます。とは言え基本的にやはり厳しいタブーだったようです。ま、それでもそんな中で男色に耽る豪傑がいたりはしましたし、時代や場所によっては寛容だったりもしたようです。少なくとも近世フランスは寛大だったイメージです。詳しくは『ダメ人間の世界史』(※)を御参照ください。あと、現代ヨーロッパは全体的に同性愛には随分と寛大な印象があるんですけどね。
さて、日本の話に移りましょう。日本の仏僧が少年愛に耽っていたのは今更改めて申し上げるまでもないと思いますが、それに関連して説話集「古今著聞集」に次のような話が残されています。仁和寺御室であった覚性法親王が千手という稚児を寵愛していましたが、歌に長じた参川という稚児に心変わり。気落ちした千手は篭ってしまいましたが覚性に呼び出された際に心変わりを悲しむ内容の今様を歌ったため覚性は哀れに思って彼を再び寵愛。今度は参川が世を儚んで退出し出家したとか。また、承久の乱を描いた軍記物「承久記」にも稚児に関する悲話が収められています。佐々木広綱の子・勢多伽は仁和寺御室・道助法親王から寵愛されていましたが、広綱が承久の乱で朝廷側についたため伯父・信綱の強い要求によって処刑されてしまいます。道助はこれを悲しんで
埋木の朽ち果つべきはとどまりて 若木の花の散るぞ悲しき
(今にも枯れそうな埋れ木のような老人である私が命を永らえ、逆に花のように美しい若い勢多伽が先に死なねばならぬのは悲しい事だ)
と詠んだとか。「楢葉和歌集」によれば珍覚という僧が道覚と勢多伽を唐の玄宗皇帝と楊貴妃にたとえているそうです。また、鎌倉期から足利期初期を中心に、稚児と僧侶の愛を扱った稚児物語が物語文学の一ジャンルをなしたと言われています。このように僧侶の男色が文芸で大っぴらに同情的に描かれているという事実をもって、平安後期や足利期における日本社会で男色が一般からも認められていたと断言して問題ないと思います。
次に、一般的な社会通念だけでなく宗教的な視点についても眼を向けましょう。実は、日本においても最初から同性愛に対し寛大だったわけではないようです。「日本書紀」によれば男色が「あづないの罪」すなわち非生産的行為であるがゆえに太陽の再生=再生産・豊穣を阻害する共同体的禁忌とされていたという話がありますし、仏教でも源信「往生要集」においては男色をすると多苦悩という地獄に落ちると記されています。もっとも仏教は基本的に同性愛に限らず性交一般を禁忌視していますが。しかしこれもやがて様子が変っていきます。十三世紀に宗性という僧がいました。彼は豊かな学識で知られ、中級貴族出身であった事もあり最終的には権僧正にまで昇進したエリート僧です。その宗性がまだ三十代であった嘉禎三年(1237)に来世での救済を祈願して悪事をしない事を誓った願文が現存しているのですが、それによると「現在までで九十五人を相手していたが、百人以上は男を犯さない」とか「亀王丸以外に愛童を作らない」とか「自房中に上童を置かない」といった内容が記されているのです。その時点で既に男を百人斬りする寸前まで来ていたのも恐れ入りますが、仏に誓う文書で「男色を止める」のではなく「数を控える」程度なのも驚きです。飲酒などは完全に禁止する事を誓ってたりする事もあるのに、男色にはえらく甘いです。この頃になると、稚児を寵愛する事自体は仏に対しても恥じる事ではないと考えられていたようですね。
南北朝動乱期である十四世紀半ば、出雲の鰐淵寺では寺院内部の争いを治めた際に次のような内容の取り決めがなされています。
「一、児童は断絶してはいけない事
児童は、すなわち法燈を継ぐ種であって、冷然を慰むる媒である(すなわち、冬の寒さや老後の寂しさを慰めてくれる相手である)。さらに、男女の情愛の関係ではない。無理して、同穴の昵びを執らざれば(つまり、男色をしなければ)、厭離することあたわず(欲望が溜まって悟りを得ることもできない)。役に立つべきものである。それゆえ、諸院諸房、各おの不断の定役に属して随分の秘計(工夫)をすべきである。」(松尾剛次『破戒と男色の仏教史』平凡社新書 97-98頁)
何というか、物は言い様ですね。男色をしないと欲望が吐き出せないので悟れない、というのは本末転倒な理屈に思われますが、当時の比叡山なんかでも稚児を延暦寺の守護神である十禅師神の化身であるとしてそれと交わる事を公認していました。以前の記事でもありますが児灌頂なる儀式で男色を正当化してたりもいたようです。この時期になると、屁理屈を駆使して宗教的にも男色が公認されるようになってたわけです。
徳川期になると、女性や女形と並んで「陰間」(男娼)も「美人」として美人画の題材にされた事は以前の記事でも述べたとおり。この時期にも男色への異端視は基本的になかったようです。恐らくは近代になってから西洋の眼を気にしてタブー化していったんでしょうね。
以上を考えると、日本は「一般から見ても」「宗教的にも」同性愛に関して随分と寛大というか放任な伝統を持っていたと言えそうです。キリスト教的保守の正しいあり方についてはここでは結論を保留する事にしますが、日本の伝統的な見方を勘案すると日本的保守のあり方としてはやはり以前に述べたとおり同性愛に対しては寛大な態度を取る事が正しいのでしょうね。
【参考文献】
本朝男色考 男色文献書志 岩田準一著 原書房
破戒と男色の仏教史 松尾剛次 平凡社新書
日本史の快楽 上横手雅敬 角川ソフィア文庫
女装と日本人 三橋順子 講談社現代新書
ダメ人間の世界史 山田昌弘・麓直浩 社会評論社
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「偉大なるダメ人間シリーズその8 プラトン」(当ブログ内に移転)
(http://trushnote.exblog.jp/14529128/)
「日本民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
関連サイト:
キリスト教側の言い分も見つけてみました。当たり前の話ですが、さばけている人はさばけてますね。
「人力検索はてな」(http://q.hatena.ne.jp/)より
「同性愛について。」(http://q.hatena.ne.jp/1138178444)
アメリカも含め、現在のキリスト教世界は大分緩やかになっているようです。肉欲がダメなのであって真摯な恋愛としての同性愛に対しては尊重するという理屈を採用する立場も多いとか。
「三十番地キリスト教会」(http://homepage2.nifty.com/room30th/sitemap.html)より
「キリスト教では同性愛はいけないんですよね?」
(http://homepage2.nifty.com/room30th/gesewa/c_homosexual.html)
イエス自身は性的少数者への差別には反対だったという内容です。あと、イエス達が独身である事に対し同性愛疑惑がかけられたこともあったのでないかとも推測してるようです。
※『ダメ人間の日本史』もよろしくお願いします。
リンクを変更(2010年12月7日)