軍事史概説 第1部 西洋軍事史(1/8) 陸軍編 上(先史~古代)
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西洋軍事史
陸軍編 上 (先史~古代)
<先史時代>
旧石器時代の遺跡から発見される戦いの形跡としては、狩猟画や、石や骨でできた槍の穂先があるものの、武器を人に向けて使用した証拠は得られてはいない。
しかし、氷河が後退し、人類の生活が狩猟・採集段階から農耕・牧畜段階へと移行し始めた亜旧石器時代および前期新石器時代(前1万2000~8000年)、さらにその後の新石器時代の初期において、人類は戦争を行うようになっていく。この時期には、武器技術が飛躍的に進歩、弓、投石器、短刀、槌矛など様々な武器が姿を現している。そして、武器の対人使用を描いた戦闘画が見られるようになる。
さらに、前8000年から前4000年にかけての近東では、集落の要塞化が進んでおり、ここからしだいに闘争が激化していったことを見て取ることができる。
<古代前期;文明と国家の誕生>
その後、大河流域における灌漑農業の発展および生産力の上昇につれ、古代近東では、人口が増加、交易も活発化し、それに応じて社会組織が高度に発達していく。結果、前3000年頃には、古代近東世界は高度な文明を組織し、国家建設の時代に入る。この時期、メソポタミアでは多くの強力な都市国家が成立したし、エジプトでは早くも諸部族を統一する国家が出現している。そして国家のさらなる発展とともに、次第に、覇権を巡る大きな戦争や征服も行われるようになっていく。
まず、この時代の武器技術の進歩を見ると、人類は、文明および国家の形成とほぼ時を同じくして、メソポタミアで青銅の使用を身につけており、これにより鋭利な武器が出現した。ところで、エジプトはこの時代の初期において青銅器より劣弱な銅器を武器としていたが、前18世紀に遊牧勢力のヒクソスが侵入したことにより、青銅器の使用が伝えられている。
この他、弓兵や投槍兵を乗せる移動射撃台である戦車も、前3000年から2500年には、既にメソポタミアで普及している。最初期の戦車は、ロバの牽く大型の四輪戦車で機動性に欠けたが、数世紀にわたる改良を経て、前1000年代の機動性に長けた馬が牽引する二輪戦車へと繋がっていく。そして前1000年代において、戦車は軍隊の最良の戦力として活躍することになる。なお、エジプトに戦車の使用が伝わるのもヒクソスの侵入によるものである。
ところで、この時代の戦闘組織については、前25世紀頃のメソポタミアの戦勝碑の彫刻で既に、槍と盾を持つ歩兵が、密集隊形を組んでいるのを見ることができる。この他、前21世紀頃に流行したエジプトの埋葬用木製模型において、巨大な盾で身を守った槍兵に加えて、弓兵が密集隊形を組んでいるのも見ることができる。
以上のように、既に青銅器時代において人類は、馬の使用による機動力、射撃・投擲による遠距離攻撃力、歩兵密集部隊の近接戦闘力という、前近代の戦闘における基本要素の全てを、組織的に使用していたと言える。
<古代中期;巨大帝国の時代>
1.アッシリア
前1200年頃から古代近東では鉄器が普及していく。そして、当時ほとんど唯一の鉄資源産地であった小アジア東部のアルメニア地方に近いメソポタミア諸国は、強力で量産に優れた武器を得て、大征服が可能な軍事力を手に入れることになった。
こうした情勢下、アッシリアは、前900年頃から勢力を拡大、周辺諸国との死闘の末、前8世紀半ばにメソポタミアを統一し、さらに征服を続ける。そして前7世紀には、征服はついにエジプトにまで及び、アッシリアは一時的にではあるが、古代近東を統一する大帝国へと成長した。
アッシリア軍の主力は、封土の所持者と町村に割り当てた軍役によって維持された。アッシリア軍を構成する主な要素は、騎兵、戦車兵、歩兵、工兵であり、歩兵は槍兵、弓兵を含んでいたが、槍兵よりは弓兵のほうが重要な戦力であった。そして、これ以外に、略奪の公認を報酬にして一般民衆から集められた、極めて軽装の歩兵も存在した。
このうちで特に活躍がめざましいのは戦車兵と工兵である。戦車兵はアッシリア軍の最精鋭として中心的な活躍をしているし、工兵は諸々の攻城兵器を駆使しての攻囲戦や、山岳地帯を切り開いての迅速な進軍に大いに貢献した。
ところで人間が馬に直接乗ることができれば、その機動力および起伏のある地形への対応能力は、戦車よりも圧倒的に優れている。そしてアッシリア軍においては、投槍や弓で武装した騎兵が重要な戦力となっており、アッシリアは、騎兵を正規の戦力に組み入んだ最初の大国として知られている。だがそれにもかかわらず、アッシリア騎兵は、未だ戦車隊に取って代わるには至っていない。
2.ペルシア
アッシリア帝国の武断的な統一帝国は被征服民の反発が強く、前7世紀の末にアッシリアは滅亡に至る。だが、その後イラン高原からアケメネス朝ペルシアが台頭し、前6世紀後半、再び古代近東を統一する。アケメネス朝は、地方や民族ごとの独自性を尊重する穏健な統治で、被征服民の反発を小さく抑え、巨大帝国を長く維持することに成功した。
ペルシア帝国は広大な領域から巨大な兵力を徴用していたが、その主力は、イラン高原西部のメディア人およびペルシア人の封土所有者であった。ただ、前5世紀の終わりには、これらの封土所有者が均等相続によって困窮し、傭兵への依存が高まっている。
ペルシア軍の武器について見ると、主力であるペルシア人は、歩兵が槍と弓、騎兵が投槍と弓で武装している。ペルシア軍は様々な民族を含んでいるため、この他にも、多種多様な武器が使用されている。
ペルシア帝国軍では、戦車に代わり、騎兵がその中核として戦局を主導する活躍を示している。騎兵は主に、敵側背への包囲攻撃や、投擲による敵の攪乱等に使用されている。
そして歩兵については、巨大な兵力を並べ、大量の矢を射かけて敵を圧倒する戦法が目立つ。ただ、ペルシア軍の歩兵は数は多いものの、多民族の寄せ集めの雑多な軍隊であるために、かえって巨大兵力が重荷となって、統制が困難になっているようにも見える。
ちなみにペルシア軍の会戦における戦術としては、大兵力と騎兵の機動力を活かして戦列を大きく広げ、包囲攻撃するのが特徴的である。
ところで、戦車の使用も見られないわけではないが、全く役に立っておらず、既に軍事的な意義を失っていると言って良い。
3.マケドニア
ペルシア帝国はイラン高原から地中海東南部にかけての広大な領域を支配したが、その影響力はさらに地中海西北部にまで及ぼうとしていた。実現はしなかったものの、エジプト征服直後には、西地中海のカルタゴへの遠征計画が持ち上がっているし、北方のギリシアは、前5世紀の終わりには、ペルシアの圧倒的な富力の前に事実上の属国と化していた。こうして、これまで中東を中心に展開していた西洋世界の歴史に、地中海西北部の勢力が無視できない要素として姿を現すようになる。
そして、前4世紀後半、ギリシア辺境からマケドニア王国が台頭、精強な軍事力によってペルシア軍を粉砕、ペルシア帝国を乗っ取る形でイラン高原から東地中海にかけての支配者となった。
このマケドニアの征服を支えたのは、ギリシアと中東の軍事的な長所を融合させた軍隊であった。
当時のギリシアは、前8世紀に農民共同体として成立した多数の都市国家に分割支配されていた。社会組織の発展は、未だ初歩的な農民共同体の段階を完全には脱しておらず、そこに高度に組織された効率的な軍隊は存在しなかった。そのため、当時のギリシア諸国の軍隊は、戦略的に大規模な作戦を遂行する必要性も能力も欠いていた。そして戦術展開能力も、ギリシア諸国の軍隊は未発達で、戦闘は、自力で武装可能な富裕農民兵士が、槍を武器に密集部隊をつくり、全部隊一団となって平原で単純に正面衝突する形で行われた。貴族の騎兵や、貧民や異民族からなる軽装の弓兵・投擲兵のような、富裕農民の共同体を脅かしかねない兵科は、十分には活用されていなかった。明確な意図をもって実施され成功した戦術的な工夫は、戦列の一点で厚みを増やして突撃力を高め敵中枢部を踏み破った、前4世紀前半のエパメイノンダスの戦術ぐらいであろう。ただ、歩兵密集部隊の近接戦闘力に限って言えば、ギリシア諸国の軍隊は他のいかなる軍隊をも圧倒していた。ギリシア諸国は、地中海世界の活発な商業網に参加することで、経済的にはかなりの発展を遂げており、歩兵の密集戦闘法が採用された前7世紀には、豊富かつ低価な金属武器が、個々の兵士に、非常に強力な武装を行うことを可能としていた。こうして、ギリシア諸国の農民共同体は、それまでに類を見ない重厚な甲冑を身に着けた重装歩兵部隊を生み出した。そして、この重装歩兵の戦法は、農民共同体が崩れ、傭兵が社会にあふれ出した前4世紀にも消えては行かなかった。
ここにマケドニア王ピリッポス2世は、マケドニア人に戦闘技術をたたき込み、ギリシアにあふれる大量の傭兵を集め、徹底した訓練で部隊の戦闘力を極限まで高めた。さらに諸兵科の連携にもとづく中東の優れた軍隊組織に学び、高度な戦術・戦略能力を開発した。
ギリシア諸都市に倣って重装歩兵部隊を育成するとともに、古くからマケドニアを含むギリシア北部で見られた槍を武器とする重騎兵を、強力な突撃部隊に鍛え上げた。投槍で武装した軽騎兵や、弓や投石で戦う軽装歩兵も導入され、敵の攪乱や突撃部隊の支援に使われた。こうして重装歩兵の卓越した近接戦闘力が、遠隔兵器や、騎兵の機動力と連携し、巧妙な戦術と圧倒的な破壊力が融合することになった。ピリッポスはこの軍隊の力で、ギリシアを統一する。
そしてピリッポスの子アレクサンドロス大王は、このマケドニア軍の威力を最大限に引き出す戦法を開発して、ペルシアを打ち破る。アレクサンドロスの駆使した戦法は、強力な騎兵隊によって敵戦列を突破、敵兵を背後から、自軍の重歩兵の密集部隊が一団となってつくる巨大な壁へと追い込み、粉砕するというものである。
4.ローマ
アレクサンドロス大王の死によってマケドニア統一帝国は崩壊する。だが、マケドニアの軍事的影響はその後も強く受け継がれることになる。西洋の主要国家は、かつてはアレクサンドロスの軍勢に吸収されていた、高度な戦闘能力を持つ傭兵集団を用いて、抗争を続ける。地中海の全域に傭兵集団があふれ、巧みな戦略・戦術を駆使した争いが広まっていった。
このような情勢下、イタリア半島にローマが台頭する。この時点のローマは農民共同体としての性質を強く残しており、大規模な戦略や巧妙な戦術を駆使して覇権を争う能力が、十分に備わっていたわけではなかった。だが前3世紀のカルタゴの傭兵軍との長く激しい抗争を通じて、ローマは高度な軍事的能力を体得する。そしてこれ以降、ローマとその軍隊は、着実に成長を続け、地中海の東西に勢力を広げて西洋の最強国家へと成長する。その後、ローマの領域は、前1世紀には西ヨーロッパからエジプト・シリアに至る地中海沿岸の全域におよび、その勢力はイラン高原の強国パルティアをも圧倒することになった。
ローマの軍隊は、前6世紀にイタリア半島南部のギリシア人都市国家から重装歩兵の密集戦闘法を受容していたが、前4世紀後半の山岳民族サムニウム人との戦いを通じて、これを、山地でも適用可能なより柔軟な独自の戦闘法へと発展させていった。ローマの歩兵は、投槍の束を持った軽装兵を前面に広げ、その後ろに主に剣と投槍で武装した重装歩兵の密集部隊が三段の戦列に、散開配置して戦うようになった。この戦闘法は、旧来の全部隊が一団となって戦う戦闘法とくらべて、正面の敵に対する戦闘力の点では劣ったものの、戦術的な柔軟性において圧倒的に優れていた。まず、各部隊が分散独立していることで、起伏のある地形でも隊列が乱れにくいし、状況に応じて適切に移動、戦術展開することも可能であった。さらに、予備兵力を用意した結果、これを適宜戦闘に投入し、疲労した敵兵に追い打ちをかけたり、破れた味方戦列を立て直したりすることができた。
もっともローマ軍は、この柔軟な歩兵戦闘法の潜在能力を、採用当初から完全に引き出していたわけではない。だが当時最高の戦術家であるカルタゴ軍司令官ハンニバルとの戦争を戦い抜くことで、ローマ軍は戦術展開能力を飛躍的に強化していった。強力な騎兵と、敵兵を自軍戦列の中に深く誘い込む巧妙な歩兵の運用によって、ハンニバルは鮮やかな包囲戦術を展開、ローマ軍は戦うたびに壊滅的な打撃を受けることになった。それでもローマ軍は屈することなく戦い続け、しだいにハンニバルの優れた用兵術を、自軍の戦闘法の中へと組み込んでいった。この戦争の後期に登場した、ローマ軍の最も優秀な指揮官スキピオの用兵を見れば、それが敵将ハンニバルの用兵と非常によく似ているのが分かる。ローマ軍は、騎兵を活用した戦術を体得したし、その歩兵部隊は敵側背へと展開することを学び、戦術的柔軟性を最大限に発揮するようになっていった。
その後、ローマ領の拡大につれ、しだいに農民兵は遠隔地での軍務の負担に耐えられなくなり、前1世紀までには貧民からの志願兵が専門の兵士となる体制が確立していった。これにより、ローマ軍はより一層その軍事能力を高めていくことになった。なお、農民兵が自己負担で武装する体制が崩壊したことで、富力による兵士の区分が消え、軽装歩兵は消滅、歩兵は全て重装歩兵となっている。ただ、この時期にあっても従属させた他民族に派遣させた支援部隊には軽歩兵が含まれている。
<古代後期;ローマ帝国の後退>
2世紀末以降、ローマは衰退期に入る。広範囲にわたる平和の中でイタリア半島から産業技術の移転が進んで、地方は経済的に自給自立に向かいつつあった。頻発する内乱は中央権力の弱体化を加速させた。そして、帝国領を防衛するローマ軍は、外敵の侵入の大半を占める散発的で小規模な襲撃に対応して、組織の細分化が進行、土着傾向を強めていった。これらの結果、帝国政府の威令はしだいに地方に及ばなくなっていった。特に、帝国西部は元より経済的に後進地域で、広域の商業や交通の地力に劣るため、帝国の支配力の後退は著しい。帝国西部はしだいに異民族が浸透し、異民族と同化していった。
こうして5世紀にローマ帝国は領域の西半分を失い、以後6世紀の一時的な軍事的成功を除いて、帝国の支配は後退するばかりであった。
6世紀の帝国軍は、この時代の衰退しつつある帝国軍の特徴をよく表している。帝国の兵力は無数の要塞を拠点として各地方の防衛戦を成功させるに十分な量があったが、指揮系統が細分化されており、大兵力を単一の遠征や会戦に結集することはもはや不可能であった。そのため、強国ササン朝ペルシアと対峙した東方国境でさえ、戦争は主に、略奪目的の小規模な侵入やこれに対する待ち伏せ攻撃、城塞の攻防戦等の形で行われていた。征服戦争や会戦が行われることがあっても、そのために作戦や戦場に投入された兵力は、大した規模ではなかった。この時期、帝国は大きな軍事的成功を収め、一時的に西地中海の支配権を回復しているが、これは十分な規模の遠征軍を繰り出すことができたわけではなく、成功はベリサリウスのような有能な指揮官の個人的力量に大きく依存していた。
そして小規模な戦闘に慣れたローマ兵は、激しく決定的な戦闘を行う能力が衰えつつあった。また中央権力の弱体化のもたらす訓練の劣化が、兵士の規律をしだいに低下させており、この傾向を一層強めていった。既に3世紀において、ローマ歩兵は、投槍をより軽量なものに代えたり、あるいは弓兵に頼るなど、攻撃の射程距離を伸ばして近接戦闘を回避しようとする傾向を生じつつあったが、6世紀の歩兵は投槍や弓矢による一斉攻撃を主な攻撃手段とした。もはや歩兵は、会戦において敵軍に向かって近接戦闘を挑むことはなく、もっぱら防御的な役割を担い、騎兵が態勢を整えるための拠点として機能した。歩兵を攻撃的に展開することができないので、帝国軍は騎兵頼みの戦術展開を行うようになった。騎兵は重装備で、槍と弓を持ち、近接戦闘と射撃戦の両方が可能であった。そしてこの騎兵は指揮官が個人的に召集し訓練することで維持されていた。
参考資料は別ページを参照
西洋軍事史 陸軍編 中(中世~近世)へ
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