本居宣長『紫文要領』より「もののあはれ」を見る 訳:NF 「もののあはれについて」(三)
|
(二)はこちらです。
質問して言った、「作り話であるから、そのような事は証拠としては言うに足りないではないか」、と。
答えて言う。作り話にせよ、それはとにかくとして、紫式部が心中で源氏君を良しとして書いたのである。このように、不義や淫乱を問題にせず関わらず、源氏君を良い人にしたのは、人情に適って「もののあはれ」を知る人だからである。源氏君に限らず、物語世界の中でよい人としよい事とされているのは、みなこういうことである。あの女三宮の密通によって、病に倒れて亡くなられた衛門督(NF注:ここでは源氏のライバル・頭中将の長男を指し、彼は一般には「柏木」と通称される)の件は、数ある中でも心引かれるものである。だから柏木巻の終りに、
「高きもくたれるもおしみあたらしからぬはなきも、むへむへしきかたをはさる物にて、あやしうなさけをたてたる人にそ物し給ひけれは、さしもあるましきおほやけ人女房なとの、年ふるめきたる共さへ、こひかなしひ聞ゆる、ましてうえには、御遊なとのおりことに、先おほしいててなん、しのはせ給ひける、あはれ、衛門督のということくさ、何事につけてもいはぬ人なし(身分の高い人も低い人も柏木の死を惜しみ残念がらない者はないが、身分の高い人は特にそうで、柏木はたいそう情趣を解する人でいらっしゃったので、それほどでもない宮中人や女房などの、年をとった人々でさえ、残念がり悲しみ申し上げる。ましてや帝は、管絃のたびに、真っ先に彼の事を口に出し、偲びなさる。ああ、衛門督がいればという言葉は、何事につけても言わない人がない)」
とあるので、良い人とされている事が分かる。とはいえ世間の人があの不義を知らないためだとも言うだろうが、不義を知っている夕霧大将(NF注:源氏の嫡男、柏木の親友)が、柏木を惜しみ残念がりなさる事も文中には見られ、また源氏君(NF注:この時の源氏は女三宮を正室としており柏木に正妻を寝取られた立場。それを知った源氏は柏木に精神的圧迫をかけ死に追いやったのであるが、それはそれとして源氏は彼の才を惜しんでいる。)が柏木を惜しみ残念がりなさる事も、若菜下、柏木、横笛、鈴虫の巻に見えている。この衛門督も、通常の議論で言えば、他人の正室を犯して、子を産ませた不義は大きなものであるから、どれだけよい点が他にあっても、言うに足りないものであるのに、逆にそれが理由で死んだ心情を哀れみ、世間の人に惜しまれ、源氏君さえ深く惜しみ哀れみなさる事を、他とは際立って描いている事から、「もののあはれ」を第一として、淫乱事は問題にせず関わらない事が分かる。またそれを哀れむ源氏君は、通常の考え方から言えば、大変な馬鹿者といえる。それなのに自分の恨みや怒りを差し置いて、「もののあはれ」を第一となさる事から、あれもこれも物語が良しとするものは、通常で良しとされるものとは指す内容が違うのである。
さて女で良い人の例とする人は、物語全体の中では、薄雲女院(NF注:源氏の父・桐壺帝の中宮であり、源氏の義母にして初恋の人。源氏との不義により冷泉帝を儲けた。)や紫の上などである。その中で女院は不義があるが、その事については全く悪いなどと非難した内容はなく、薄雲巻で
「かしこき御身のほとと聞ゆる中にも、御心はへなとの世のためにもあまねく哀におはしまして、かうけにことよせて人のうれへとある事なとも、をのつからうちましるを、いささかもさやうなることのみたれなく、人のつかうまつる事をも、世のくるしひと有へき事をはととめ給ふ(高貴な御身分と申し上げる中でも、御考えなどが世間に対しても広く心を動かしなさっており、薨去に事寄せて人の憂いとなるような事も、自然とでてくるものであるが、女院の場合は全くそのような乱れはなく、他人が行い申し上げる事でも、世間の苦しみになるだろう事は止めさせなさる)」
などなどあり
「何とわくましき山ふしなと迄おしみ聞ゆ、おさめ奉るにも、よの中ひひきてかなしを思はぬ人なし(何と卑しい山伏などまでが女院を惜しみ申し上げ、埋葬し申し上げる際にも、世間を挙げて残念だと思わない人はない)」
とまで褒め申し上げている。その中で、「世のためにもあまねくあはれにおはしまして」と言っている、「あはれ」という言葉に注目するべきである。それ以下の様々な描写は、その「あはれ」でいらっしゃる内容についてである。源氏君と逢瀬をなさったことも、「もののあはれ」に忍びない御心がおありだったので、言い回しでは、「あはれ」でいらっしゃるという中に込められているのであろう。薄雲女院を良い人としていえるのはこの通りである。そして紫の上の良い点は、色々な巻にその内容が見られ、今更格別にいう必要はない。その紫の上の性質を言えば、蛍巻の絵物語について言った段で、
「うへ心あさけなる人まねともはみるにもかたはらいたくこそ」
<「うへ」とは紫の上であり、以下は紫の上がおっしゃった台詞である。「人まねとも」とは物語共の事であり、人の身の上にあることを真似て書いたものであるから、こういうのである。「心あさけなる」とは、心底の浅薄で浮気性な女の様子を描いているのを言う。「かたはらいたき」とは、俗に笑止なという事である。「見るにも」と言っている事から、ましてやそんな事をする女が残念であると思いなさる事だと分かる。>
「うつほの藤原の君のむすめこそ、いとをもりかにはかはかしき人にて、あやまちなかめれと」
<これは『宇津保物語』に登場する人によって、花鳥余情の要点を選り出して記しなさっている。詳細は宇津保物語を読むべきである。この人は、先に心底が浅薄だといった女の反対で、多くの人からの懸想を聞き入れず、無情であったので、懸想した人々はこれを辛く思い、或る者はそれにより死んだりもしたけれど、女は少しも心動かされなかった。このような女は、通常の議論で言えば、貞烈であるといって褒めるべきことである。だから「あやまちなかめれ(過ちはないであろう)」と言ったのである。>
「すくよかにいひいてたるしわざ、さも女しき所なかめるぞひとやうなめる、との給へは」
<「すくよか」とは、木などがまっすぐにすっと立ち伸びただけのように、何の見所もないようなことを言う。風流温潤なところがない。「女しき」は女らしいことである。女は余り「すくよか」であるのもよくないということである。「ひとやう」とは、一方に偏る事を言う。>
とある。この文を見て、紫の上の心情が分かる。心底が浅薄で浮気性の女は、笑止であるのはもちろんであるが、だからといって、あの「藤原君のむすめ」のように、一様に貞烈だけを立てて、人に靡かない淡白さもあんまりであって、女としてふさわしくないと言っているのが、紫の上の心中でも、好色の方に「もののあはれ」が知られるであろうという考えが明らかである。だから全体忠で良しとされる紫の上の心中でも、通常の書などで良しとする内容と違いがある。貞烈な女を、「一面的すぎる」とおっしゃった事からも分かる。
質問して言う、「ならば紫の上に淫行がないのはどういうことか。物語の中の婦人は、多くに淫行があるのに、紫の上にはないためよしとするのか」、と。
答えて言う。淫行の有無は打ち捨てて関わらないものである。物語の中には淫行がなくても悪い人もあれば(※6)、淫行があっても良い人はいる。だから淫行がなくて良い人ももちろんいるのである(※7)。
注へ。