本居宣長『国号考』 訳:NF (七)
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(六)はこちらです。
・豊(とよ)または大(おほ)という称辞(称えるための称号)
「葦原中国」「秋津嶋」などに、「豊(とよ)」という言葉を冠して、「豊葦原中国」「豊秋津嶋」といい、「八嶋」「倭」などには、「大(おほ)」という言葉を冠して、「大八嶋」「大倭」と言う。これらの国号だけでなく、一般に「豊」や「大」と付ける例は多い。みな上代の賞賛用の称号である。しかし「大日本(おほやまと)」などという「大(おほ)」は、中国で、当時の国号を尊んで、「大漢」「大唐」などと言っているのに倣ったものだという説があるのは、太古の事を知らない、例の推測だけの誤謬である。もしそういうなら、あの「豊葦原」などの「豊」は、どう説明するのか。これは中国には全く見られない美称であるのに。また中国では、王の母を大后というのに対して、皇国の昔には、当御代の嫡后を「大后」と申した。これらも、「大(おほ)」という言葉が、全てを中国に倣ったのではないという証拠である。しかし『日本書紀』には、古くからの称号と異なって、大御母をも「皇大后」と記されており、これは中国に倣ったものである。『日本書紀』にはこのように、中国に倣って書かれた事も多いので、神代からあったことでも、中国に似たものは、みな中国に倣ったものでないかと疑う向きがある。そもそも「大(おほ)」という美称は、「大臣(おほおみ)」「大連(おほむらじ)」などという類がまた多い。みな上代からの事であり、「大倭(おほやまと)」と言っているのも、『古事記』の景行天皇御段に、熊曽建(くまそたける)の言葉に、「大倭国(おほやまとのくに)」と見え、また懿徳天皇・孝安天皇・孝霊天皇・孝元天皇などの大御名には、『古事記』には、「意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)」などと、万葉仮名で書かれた御名さえあるというのに。
「大和」と書いているのは、必ず「意富夜麻登(おほやまと)」とよむものである。『和名抄』に、畿内の「大倭」も、またその国の城下(しきのしもの)郡である大和郷も、ともに「於保夜万止(おほやまと)」とあることから分かる。しかし常に用いる言葉として、ただ「夜麻登(やまと)」とだけ言うから、「大」の字が添えられているのも、ただ「夜麻登(やまと)」とのみ読んで、また「夜麻登(やまと)」と言う際に、必ず「大」の字を添えて書くものと理解しているのは、みな間違いである。ただ「夜麻登(やまと)」というには、「和」の字だけ書く。ただし諸国の名、また郡や郷の名を、みな必ず二字で書くようにという御定めがあったので、畿内の国名である「やまと」の名、またその中の郷名である「やまと」には、必ず「大」の字を書き添え、「意富夜麻登(おほやまと)」と読むのが正しかったのだ。
国号考終
天明七年丁未秋発行
書林
勢州松坂日野町 柏屋兵助
京都寺町通四条上ル町 銭屋利兵衛
弘所
江戸 日本橋通一丁目 須原茂兵衛
京都 寺町通四条上ル町 銭屋利兵衛
伊勢松坂 日野町 柏屋兵助(印)
参考文献に続きます。