F.E.Adcock『ギリシア人とマケドニア人の戦争術』 山田昌弘訳 新装版 第5講 本文 上
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5 大戦略の手段と目的
「異なる手段で行う政策の延長にすぎない」(1)というクラウゼヴィッツの有名な戦争の定義があるが、国家が自由と名誉を守るために、本来回避すべきはずの政策的に考えられない戦争に突き進むことがあるのを思えば、この合理主義は欺瞞でしかない。彼が戦略を「戦争目的に合わせて戦闘を使用するための理論」(2)と定義するときにも、彼はその定義を合理的な範囲に無理に狭めている。ナポレオンは勝利は常に何かの役に立つと言わなかっただろうか?そもそも国家は戦略の中に勝利以上の目標を見出すことを知らない。国家というものは必ずしも、ワシントンにあるシャーマン将軍像の台座に記された、戦争の正当な目的はより完璧な平和であるという金言に賛同してはいないのだ。少なくとも私の目的にとっては、大戦略という語で今回の講義から戦術との境界事例や戦闘指揮を除外するのを別にして、戦略という語にはより広い意味を与える方が好ましい。私は戦略の中に、戦争に繋がる可能性のある政策と戦争から派生したと思われる政策を含めている。また政策は、互いに影響を与え合う手段と目的にも関係を持つことがある。19世紀の大ブリテン島の政策は確固たる目的を追求しており、軍備を大規模海軍と小規模陸軍の状態に保って基本的に守勢に立っていた──もっとも70年代に短期間、「我々には船も、人も、金さえも備わっている」などという怪しげな主張に政策が乗せられることで、いわゆる「jingoism(愛国主義)」が幅をきかせたことはある。
街角に響く愛国屋の歌はさておき、ペリクレスの声、あるいはこちらの方が好みならトゥキュディデスの声と言っても良いが、に向かうことにしよう。彼はペリクレスにペロポネソス戦争開戦前夜、戦争における成功はほぼ確実に優れた判断と豊富な資金によってもたらされると語らせている(3)。私が「優れた判断」と訳した単語はこの文脈では「堅実な戦略」を意味しており、「豊富な資金」はあらかじめ蓄えた余剰を意味している。この見解はペリクレスの計画していた戦争には当てはまるが、ギリシア諸国がこれ以前そしてこれ以後に行った戦争のどれにでも当てはまるわけではない。ギリシア国家のごく一部しか豊富な資金は持っておらず、それが無くとも戦争における成功は達成されることがあった。実際、乏しい財政的裏付けしかなくとも戦争を始めることはできた。一国の重装歩兵(hoplites)ならば、数日分の補給物資を携えただけで集まって、何の不安も抱かず出発することが可能であり(4)、味方の土地にいる間は支援が得られたし、敵の土地にいるときは奪い取れば良かった。大量の糧食も膨大な軍需品の備蓄も必要ではなかった。彼らの目的にはたいてい小規模な荷車と駄獣の隊列で十分であり、軍事行動は農民が農園を離れる余裕のある時期に短期間のみ行われるものであった。攻囲戦のような長引く作戦ならば大きな資金準備が必要であったが、攻囲は滅多に行われなかった。こうしてほとんどの都市国家では、財政状況による制約などあまり生じなかったのである。
ただしペリクレス時代のアテナイは多くの都市国家とは異なっていた。アテナイは巨大艦隊を保持し続けていたが、艦隊は、漕ぎ手が多くの場合、貧困なアテナイ人か帝国各地から対価を払って雇い入れた者であったため、金がかかるものであった。一隻の三段櫂船(trireme)を一ヶ月間就役させておくのに、ギリシアの金に関する言い回しを使えば、一財産が必要であった。シラクサ、コルキュラ、コリントスといった裕福な国々ではある程度の規模の艦隊を維持できたし、エーゲ海のいくつかの大きな島でも可能であった。ただ、コリントス人が同盟国とともにアテナイに対抗できる艦隊を創立しようと望んだときには、徒労に終わるであろう試みのために、彼らはデルポイやオリンピアの神域に納めた財宝を引き上げることを考えねばならなかった。艦隊の維持以外にも、アテナイは都市を攻囲する用意をせねばならなかったし、帝国を維持したり敵を痛めつけたりするために、何度か海を越えて遠征することもあった。ペリクレスの初期の戦略は、アテナイの膨大な財政的備蓄があればこそであり、当分の間備蓄が維持され好きに使用できるからこそ可能なものであった。また、さらに多くの資金を強制納付金の形で集めることとなり、アテナイ国内には、戦争税が数年間課せらることになったが、結果、歳出が、それまでに蓄えた富の約三分の一に上ることになった(5)。これならば、備蓄の減少を戦争の最初の十年の後アテナイが講和するに至った大きな理由の一つと見なすのは合理的である。そして比較的平和な五年間の後に備蓄の再建が成って、アテナイはシチリア遠征で再び浪費することが可能となったのである。戦争の最後の十年間は、十分な証拠はないものの、アテナイが支出をまかなうのに非常に苦しんでいた形跡がある。その一方、敵勢力のペロポネソス同盟の財政的な脆弱さは、ペルシアの補助金のおかげで改善していたのである。
紀元前4世紀においてギリシア諸国の戦略は財政上の必要性に左右されていた。艦隊は否応なしに縮小し、アテナイが同世紀の半ばに海軍力を再建したときには、その負担のあまりの重さに、戦争の他の分野におけるアテナイの活動が制約されかねない状況であった。小アジアにおける対ペルシア戦争では、スパルタの指揮官達はアゲシラオスでさえ、作戦の費用をまかなうために略奪品を集めようと、無理のある戦略を採用する傾向にあった。ギリシア本土では傭兵の使用の結果、戦争は雇い主よりも傭兵たちの利益となる形で行われ、長引くようになっている。第二次アテナイ同盟の時期には財政逼迫のため、アテナイ人は遠征に送り出され、友の命を引き替えにして金を稼がねばならなかった。一方豊かな資金のおかげで、ペルシア王やその臣下の太守たちは、ギリシア人の指揮官と兵士を雇ってギリシア諸国と戦うことができた。市民達は今なお戦争の危難が襲いかかれば自分たちの都市に忠誠を捧げて戦ったけれど(6)、ギリシア都市国家が彼らを戦いに雇い続けることは困難であった。デモステネスが、一部は傭兵一部は市民兵から成るマケドニアに対する常設の遠征軍の計画を提示したときには、彼は細心の財政見積もりによってその案を正当化しなくてはならなかった(7)。ピリッポス2世の初期の戦略は、彼の財源である金銀の産地の安全確保に向けられていた。財政が戦争を助けあるいは阻害する時代が確かに訪れたのであり、ピリッポスはこれを十分に認識していたのである。
アレクサンドロスがペルシア侵略に乗り出したとき、彼は深刻な財政難に陥っており、その未来は明るいものではなかった(8)。彼は小アジアで即刻成功する必要があり、このことは彼が最初の戦闘であるグラニコスの戦いで、身の危険をも冒した大きな理由の一つである。それ以降はペルシア征服は現地で得た資金で賄われたが、ペルシア大王の金庫の数々から得た莫大な金銀の備蓄は軍事費の水準を跳ね上げることになり、アレクサンドロスの後継者達も広大な領土からの収入のおかげで、その水準を維持することになった。彼らの軍隊の精鋭部隊は高額の給与を一年中受け取っていた。アンティゴノス1世は兵士達の忠誠を確保するため、身辺に豊富に満たされた戦争用の金庫を持ち運んでいたが、彼の競争者の多くも同様にしていたようである(9)。そして二、三十年の間は、万全の戦略が豊富な資金によって、しっかりと担保されていた。だが彼らの王国の国力への負担は重く、繁栄と臣民の忠誠心は損なわれることになった。それ故、マケドニア人のアンティゴノス一族への忠誠は継続しており、最後の王ペルセウスも、嫌々ながらも高価な傭兵市場で国富を投じて軍事力を購入することはしたので、その敗北までこの忠誠は維持されていたにも関わらず、ギリシア人王国の勢力は衰退することになった。財政状況の戦略への影響を見積もるに際しては、古代において取引とは、現金取引に限ったということを忘れてはならない。支配者達は、国債という近代国家において明日の富を今日使うことを可能にしている幸運の財布を、持っては居なかった。そのため大戦略においては必ずしも戦略が優先されることはなく、しばしば手段と結果の間に十分な均衡が成立しているのである。
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