F.E.Adcock『ギリシア人とマケドニア人の戦争術』 山田昌弘訳 新装版 第5講 本文 中
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5 大戦略の手段と目的
大戦略と財政の相互作用から大戦略と地勢の相互作用に話を移そう。ギリシア本土には多くの地理区分があり、また部分的にはその影響もあって政治上の地理区分も多いが、その間を満たす辺境地帯は多くが防衛に適した環境にあった。Gomme教授は著書の『Historical Commentary to Thucydides』の素晴らしい序文において(10)、なぜギリシア諸国は紀元前6世紀と5世紀にその潜在的な軍事力を辺境防衛に注がなかったのかという、もっともな疑問を呈している。この疑問に対する部分的な解答は──第一講で私が示したように──山地帯の防衛には重装歩兵(hoplites)よりも軽装兵部隊のほうが適任であったということである。そして都市国家は、国家の安全よりも重装歩兵(hoplites)を任用することを重視しており、その結果、軽装兵部隊は、完全に軍事的とは言えない理由のために、優れた統率と機敏で賢明な指揮命令を受けて真に困難な任務を遂行できるほどには、訓練を与えられなかったのである。また山地での防衛戦はしばしばその山地を守るだけに終わるということも思い起こすべきである。「長らく議論されてきたことは」と言ってジョミニは「山地を確保することで平地を支配できるのか、その逆であるのか」という問いを記しているのだから(11)。軽装兵部隊の質が向上し傭兵が市民兵の限界を超えたより長期の勤務を実現した紀元前4世紀には、辺境防衛の問題も理解されるようになってしばしば成功も収めた。アイトリアのように国土が山がちな場合は、やはりアイトリア人が重装歩兵(hoplites)に対して用いたのと同じ戦略によって、彼らを有利な地形から遠く引き離すとともに、軽装兵部隊を繰り出して攻撃するべきであった。アッティカと隣国のボイオティアおよびメガラとの国境は長期間にわたり巧妙に配置された一連の小要塞群によって防衛されており、これが強襲によって攻略されることはほとんどなかった。もっともアッティカの辺境の砦はペロポネソス戦争の成り行きに関してはほとんど影響を与えなかったが。
この戦争では海と陸の双方で、敵地の弱点を利用する戦略的な工夫が見られる。この工夫はepiteichismosと呼ばれ、いくつかの地点や地方に敵を圧迫するため設置された要塞を意味している(12)。この構想は戦争が起こるか否かが議論の的であった時期には未実現の段階にあったが、主にアテナイによって、全てが効果を発揮したわけではないにせよ、実行に移されることになった。これについては二つの成功例を挙げて説明しよう。戦争の初期段階において、アテナイの進歩的な指揮官デモステネスはペロポネソス半島の西海岸に拠点を確保したが、この間接的な効果としてはスパルタの一軍を捕獲することとなり、直接的かつ持続的な効果としては、スパルタ人の奴隷の立場を逃れることを望んでいたスパルタの農奴たち(helots)に安全な避難所を与えることになった(13)。これはある意味、戦争の最終局面でペロポネソス勢がアテナイを視界に納めかねない位置にあるデケレイアに拠点を設置したことで、報復されたとも言える。この拠点へとアテナイの奴隷が多数逃亡することになったが、おそらくはその大半が奴隷の扱いの酷いアッティカ南部の鉱業地帯からのものであろう。さらにこれには、アテナイからエウボイアへの重要な連絡路を封鎖するという経済的な効果と、アテナイ軍を常時警戒した状態に追いつめるという軍事的効果も存在した(14)。
戦略上より持続的でより大きな価値を持つ行動の一つが隘路の確保であり、とりわけテルモピュライは注目に価値する。テルモピュライではそのような試みが繰り返されるのを見ることができるが、隘路を迂回することができるために、ユスティニアヌスの時代にこの危険を克服できるだけの規模を持った組織化された軍団を防衛の中核に据えるまで、防衛は繰り返し失敗に終わってきた。ちなみに、一度アテナイ軍と同盟軍が急いでこの地を占拠してピリッポス2世の前進を阻もうとしたが(15)、この王がこの時、この隘路を強行突破あるいは迂回して大々的な衝突を始めようという十分な意欲を持っていたかは怪しい。なるほど以前に彼は、破城槌のようにより強く突進するために一旦後退すると言っていた。けれども後退して全く突進しなくてすむ機会を待つほうがより一層彼らしいし、その機会が訪れるのは確実だったのだから。
進撃を阻止するための戦略で用いられる地理的環境については十分扱ったので、今度は時宜を得た進撃を確実に達成するための戦略と地勢の関係について話を移そう。地勢と戦略の相互作用は、アレクサンドロス大王とその後継者達に対して広範な影響を与えた。広大なペルシア帝国の征服というアレクサンドロスの目的は、彼の前に距離という問題を生じさせ、後継者達の併合や離反といった戦争目的もまた、彼らの前に同じ問題を引き起こした。さらに彼らの中の目的を達成した者は、より以上に巨大な地理的広がりを考慮することが求められた。一例を挙げると、ペルシア艦隊を根拠地である沿岸諸地域を占領することで消滅させるというアレクサンドロスの決定、さらにシリアとエジプトをダレイオスとの決戦に向かう前に併合するという決定は、戦略的な洞察力と地勢的な判断力を駆使していた明らかな証拠である。彼のペルシア帝国征服は距離に対する勝利であり、また、ダレイオスを初めとする敵手たちの山河を友にしようとする企てに対する、勝利の積み重ねであった。
この側面でのアレクサンドロスの偉大さは、優れた戦争の学校であった彼の陣営で指揮官として鍛えられた後継者達にも、受け継がれることになった。彼らは遠く離れた軍の間で戦略的な連携を達成しており、しかも彼らの行動は、二つの戦線で戦う場合には一方で守勢を他方で攻勢をとるべきであるといったような、近代軍事思想の正統教義の模範と言えるものであった(16)。つまり、攻撃は最大の防御という金言が半分以上適用可能な問題については、彼らは正しい判断力を備えていたと言うことである。彼らは膨大な距離を超えて巨大な軍を動かし、遠大な目的に役立つよう、適宜作戦を遂行した。プトレマイオス朝の外交政策から一例を挙げると、シリアをエジプト防衛の外郭として、さらに艦隊建造維持の手段として、二重に活用したことは、天然資源と地勢上の利点に関する見事な判断を示している(17)。
戦略もまた兵力に依存している(18)。二万の兵力をもって迫り来る敵王に一万の兵力で敵し得るか考えて座り込む聖書の王は、この講義の最初に挙げた調子に乗って吠えまくる愛国屋よりも、賢明な戦略家である。紀元前5世紀におけるスパルタの戦略は、その戦力の相当部分を常に、農奴(helots)を土地に留めておくために使用しなくてはならないという事情によって、制約されていた(19)。対照的にアテナイは、海軍のおかげで他国が動員できなかった市民の多くが所属する階級を有効に活用し、紀元前5世紀には戦略をはるか海外へと展開した。諸国は同盟によって兵力を増強することが可能であり、しかも、重装歩兵(hoplite)部隊はお互いに簡単に連結することができたので、それはかなり容易に実行できた。スパルタは自国の兵力を補うため、ペロポネソス同盟と呼ばれるギリシアで最も強固な同盟を作り上げたが、これは、見返りに同盟諸国の利益に配慮し、時にはそれら諸国の意向に従わねばならないということを意味した。同盟を結成し維持するうちに外交術が発達し、スパルタは記憶に残る巧妙な外交官を長期に渡って輩出し続けることになったのだが、おそらくは狡猾さを欠くスパルタ人など、ギリシア人には考えられなかったであろう。スパルタ外交を下支えしたのはスパルタ軍の威信であるが、軍隊は非常に高価な道具なので、スパルタ外交の目的の一つには、軍隊の使用を回避することが含まれていた。戦略と外交はコリントス戦争の後半期には手を取り合って進み、いずれの勢力も、軍事情勢を、指揮官達の勝ち戦に頼ることなく外交官によって最上の和平を獲得可能な、良好な状態に持っていこうと努力していた。ピリッポス2世の戦略および対外政策は、協働して、国境地帯の勇敢な山岳民およびテッサリア騎兵を、彼の兵力に加えることになった。また戦略と外交は、互いの領域における現在および未来の敵の力を減退させることができる場合にも協働している。この実例はヘレニズム諸国に見ることができ、その政治的手腕と戦略は、しばしば部隊を派遣させるために、あるいはさらにしばしば高価な傭兵の徴募地域を確保するために、土地の支配を志向していたのである(20)。
ギリシアの戦争における戦略には別の側面もあって、今日で言うところの第五列の動員も行われている。紀元前5世紀には頻繁に、紀元前4世紀にはさらに頻繁に、一国内の派閥争いが、敵国に、反対党とでも呼ぶべき存在から助力を得られるという期待を、呼び起こすことになった。というのもギリシアの政治家や政治的党派は、自分たちの都市が政敵の手に握られているのを見るよりは、むしろ敵の手中にあることを望んだからである。例えばペロポネソス戦争前夜テバイ人は、国境の町プラタイアに、アテナイの同盟都市とならずにテバイ軍に参加しボイオティアへの橋頭堡たることを止めてテバイの同盟国としてアッティカへの橋頭堡となる意志を持っている者が居ることを、察知した。彼らは戦略的な目的から軍隊を派遣し、もう少しで成功を収めるところであった(21)。だがこのような術策は必ずしも失敗だけではなかった。例えば紀元前4世紀のスパルタの一軍は市内の一党の支援を得ることでテバイの要塞を容易く攻略できることを発見した(22)。ニキアスの平和に続く数年間における、より貴族政的な政体とより民主的な政体をめぐってのアルゴスの動揺は、スパルタの純軍事的な戦略のみならず政治的な戦略にも影響を与えた。ブラシダスが、アテナイ勢力に対してトラキアに近い諸地域で大胆な作戦を展開した際には、彼はその地の諸都市における反アテナイ運動を当てにしていたに違いなく、彼の計算が正しいことは実証されることになった。ギリシア諸都市の占領が困難なときでも、攻囲軍はしばしば、本来攻略できるはずもない市内に、裏切りあるいは少なくとも敗北主義が発生することを期待できた。都市防衛に関するアイネイアス・タクティコスの著作は、外部からの危険とほとんど同じくらい内部からの危険にも意識を向けているように見える(23)。征服か中立化を意図する国家の内部に、望むがままに協力者を手に入れるマケドニア王ピリッポスの術策は、ことわざのように周知されており、詩人ホラティウスの興味さえ惹きつけるほどであった(24)。アレクサンドロスは小アジアへの侵入に際して、親ペルシアの僭主や寡頭政治家を敵とする政治宣伝の戦略的活用を抜け目なく行っている。さらに後継者戦争では、戦略の一部として、友好的な集団を支援するとともに、敵対的な集団の力を弱らせ、あわよくば転向を誘って分裂させるということが行われているのであって、軍事戦略を純粋かつ愚直に追求し、軍事的成功の自然な効果としてギリシア諸都市の恐怖や希望を煽るほうがより一般的な傾向であったにせよ、それだけではなかったのである。そしてヘレニズム時代においては味方につけば自治を与え、敵につけば与えないという形態で、戦略的に限定された開放政策が採られていたことが知られている。ちなみに戦争が軍隊間の争いに限定されるというかなり人道的な状態にあったため、この措置はそれなりに容易に実施できた。当時の抜け目のない戦略家達が、ポリュビオスに教えられるまでもなく、戦争は勝利の果実を破壊すべきではない(25)とわきまえており、タレイランがナポレオンに説いた、国家は互いに平時においては最大限に尊重し戦時においては最低限しか傷つけてはならないという言葉(26)に近い意識を持っていたおかげである。
ピリッポスおよびアレクサンドロスと後継者達が共通して保有していた強みとして──彼らが参謀長のみ成らず外務大臣を兼任していたということがある。このような有利な立場は、ギリシア諸都市の運命を担った指導者達には、ほとんど与えられることの無かったものだ。貴族政治と寡頭政治では権力は持ち回りされる傾向にあり、民主政治では、権力は市民集会を説得できるか否かに左右され、指揮官たちや時には政敵関係にさえある弁論家や煽動者の間で、分割される傾向にあった。スパルタの君主は政策面では民選長官(ephors)の統制を受けたし、さもなくば同格の対立する二人の王の間で政策が引き裂かれることになった。戦場の指揮官は政治指導部や市民集会の期待を多少とも逸脱してしまうことを恐れており、失敗への恐怖が彼らを無謀にしあるいは萎縮させた。シチリアへの最初の小規模遠征の後でアテナイの指揮官達に起こった事態は、ニキアスも、次の冒険的な大事業に際して、警告として十分に心に留めておくべきであった(27)。
紀元前4世紀においては、軍人でない政治家と政治家でない軍人の適切な協働の難しさがよく示されている。ローマの元老院(Senate)が発したような総合戦略に基づく一貫した命令など存在しなかった。民主政治は間違いを犯さないという信念のせいで、今日の指導者が明日には罪人に変わった。軍事政策をめぐる公開討論の結果、秘密を守ることもできなかった。フリードリヒ大王のように寝帽が自分の計画を知っているならば火にくべてしまうだろうなどと言い放つことのできるギリシアの指揮官がいればその男は恵まれている。そして結局、戦略が長期的な洞察を備えることはできなくなってしまった。デモステネスは勇敢にもアテナイ人に対して、彼らが攻撃を避けることを知らず打たれたところを手ではたく蛮族の拳闘士のようなものだと、教えたことがあった(28)。だがそれでもギリシア人は、他のほとんどの物事についてそうであったように、戦争についても非常に賢明であり、危機の中でも難局に立ち向かう機転と勇気を保持していた。ペロポネソス戦争の最後に艦隊壊滅の報せがアテナイに届き、ペイライエウスから市部へとその言葉が伝わったとき、誰一人としてその夜眠れる者は居なかったが、翌朝彼らは秩序を保って防御を整えるため忙しく働いた(29)。これは虚勢ではあったが精神崩壊ではなかった。
ところで先にシャーマン将軍像の、戦争の正統な目的はより完璧な平和であるという銘を引用したはずである。そして紀元前4世紀には、ギリシア諸国が、彼らが普遍平和と呼ぶ状態を実現した期間も存在したのだが、それは戦略にたよらずとも可能だったであろうに、戦略によって達成してしまったので、戦略目的に支配されるとともに戦略のために本来の目的を損なわれる傾向にあった。またギリシア世界には余裕が無く、歴史的なしがらみは余りにも多すぎた。居住可能な土地は互いに近すぎて軋轢を生み、余りに生々しい記憶までもが存在した。平和を追求する政治家も、民衆に忘却をもたらすレテの水を飲ませて安寧を実現するなど、簡単にはできなかったのである。その上、ほとんどのギリシア諸国では、政策の安定と推進力に限界があり、政策や戦略の当然の要素であるはずの、意図的な冒険を断行するほどの余裕が存在しなかった。こうして、旧敵の存在と、一切の冒険を嫌う強い自己保存願望が、そこかしこで平和を脅かしたのである。
戦略と外交政策が手を組むことになる領域は他にも存在し、勢力均衡は、軍事的な基礎に政治的計算を組み合わせることで実現される。紀元前5世紀の三十年の休戦は、当面のアテナイの海軍力と、スパルタおよびその同盟国の陸軍力を比較して、互いに勝利を確信することはできないと結論した上に成り立っていた。アレクサンドロスの後継者の野心的な敵対関係にしても、激しい戦略的外交的な駆け引きにもかかわらず、当面マケドニア、シリア、エジプトの三大王国は、より悪い事態を招かないため、共存状態に戻らなくてはならないという認識にたどり着いた。
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