F.E.Adcock『ギリシア人とマケドニア人の戦争術』 山田昌弘訳 新装版 第5講 本文 下
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5 大戦略の手段と目的
ここからはより軍事的な活動に話を移そう。これから戦闘に直結する戦略について語るので、とりあえず戦争という分野は戦略の領分であり戦闘の分野は戦術の領分であるという、一般的な区分をしっかりと心に留めておいてもらいたい。クセノポンは「賢明な用兵とは、たとえ多少遠くとも、敵の最弱点を攻撃することにある…」(30)と記し、さらに「勝ちを見越して攻撃するならば全力で攻撃せよ、なぜなら勝ちすぎて後悔することはないからだ」(31)と付け加えている。これらの意見は、戦略を、決定的地点が敵の最弱点でないというよくある場合以外に、最大限の兵力を決定的地点に投入する術とする見解に与するものである。なお第二講で述べたレウクトラの戦いにおけるエパメイノンダスの攻撃は、この例外の一例である。また我々はフォレスト将軍の軍事的成功の秘訣「最大の兵力でまずそこを制圧せよ」を思い起こしても良いだろう。この台詞の「そこ」という小さな単語は無意味なものではなく、「重要地点」を意味している。ちなみに、ギリシアとマケドニアでは、戦略よりも戦術にこの真理がより明白に現れている。戦争に関する古代の著述家のほとんどは、戦闘に至るまでの移動よりも、戦闘の方に注意を向けており、そのため戦略に関係する素材を集めるのは容易ではない。さらに、特にギリシアの軍に当てはまることだが、戦闘直前に合同するまで分散しておくという近代的な進軍法を実行するほどの、大兵力や大規模の下部組織を備えていることは、滅多になかったのである。その上、通常は、それだけのことができる良好な街道網が存在しなかった。敵を戦闘で拘束しつつ同時にその交通線を大兵力で遮断するナポレオンの名高い大規模戦略のようなものは、古代ではほとんど例が無いが、それはまた部分的には古代の軍事環境で通信があまり重視されなかったためでもあり、一部は指揮官達が戦闘直前に兵力を分割することを嫌ったためでもあった。最後に挙げたのと同じ理由で、強力な予備軍を、後の決定的好機に重要な役割を演じさせるために残しておくことは、ギリシアの戦争では極めてまれな事態であったし、マケドニアの戦略でもまれなことあった。
メタウロスの戦い前のものを典型としてローマの戦争で見られたような、長距離の強行軍の戦略的活用は、戦闘に向けて体力を温存する必要があったことと、おそらくは行軍時の規律と良好な街道網の欠如のために、制約を受けていた。ただし全く見られないわけではない。思い浮かぶ最大の成功例は、カイロネイアの戦いに先立つ作戦でのピリッポス2世の輝かしい成功である(32)。様々な詐術で目的をごまかすとともに、厳重に秘密を保って慎重に準備を進め、急速に進撃して圧倒的な軍隊による攻撃を繰り出し、長らく彼を阻んできた同盟軍の長い防衛線において、左端を占めている一万人の傭兵隊を粉砕したのである。この成功によって彼は戦況を一変させ、求め続けていた会戦に持ち込むことができたのである。これより印象的なのはたぶんアンティゴノス1世だろう(33)。紀元前319年、彼は潜在的な敵であるアルケタスが約二万の兵を連れて480キロほど離れた位置で無警戒に野営しているのを、攻撃することに決定した。七昼夜の強行軍でアンティゴノスは騎兵、歩兵、象兵の全軍にこの距離を踏破させ、何も知らない犠牲者に向かって襲いかかり、完全に打ち破った。これが意味するところは、アンティゴノスはおよそ五万人の軍を、24時間あたり約65キロの速度で進軍させたということである。この時代には特別に任命された士官の手で日々の行軍の正確な記録が取られており、それらの記録は歴史家ディオドロスの記事の究極の情報源として利用されているので、これほどの偉業であっても信憑性に欠けるわけではない。二年後アンティゴノスは再び運試しに出た(34)。彼は冬の最中、九日行程の位置に野営地と民家で冬営している、敵であるカルディアのエウメネスを襲撃しようと計画した。アンティゴノス軍は寒い夜を五度耐えた後、ついに命令に違反して夜間に火をたいてしまい、その時の空を照らす光がちょうど良い感じに敵への警告となって、行軍は完璧だったにもかかわらず、この冒険は失敗に終わった。この第二の作戦が成功していれば、アンティゴノスの名声は永遠のものになっていただろう。
今日挟撃と呼ばれる複数軍の同時集中は、奇襲と組み合わせる形で、紀元前5世紀にも何度か試みられており、一つは成功目前までいったがあとは失敗であった(35)。この大胆で機略に満ちた構想は、速度と隠密性、さらに重要な要素として高速通信無しでの時機の正確な計算を兼ね備えることが必要であり、運に頼る側面が余りに大きかった。
戦闘前の大戦略から離れて、今度は戦闘後の大戦略を扱おう。最初の講義で述べたように、重装歩兵(hoplite)戦闘では勝利の後の追撃は長くは行われておらず、すなわち初期の時代の戦略が敵軍の完全な破壊に至るまで勝ちを上乗せしようとすることはなかったのである。撃滅戦略と言われるものは、都市国家の戦争の通常の目的を越えるものであった。ただし、戦闘での戦術に見られたように、エパメイノンダスによってギリシアの戦争の新時代が拓かれたと言えるだろう。スパルタの軍事的支配は無敵の陸軍と国土の不可侵性に支えられていた。ところがレウクトラの戦いで無敵のスパルタ軍を粉砕した後、エパメイノンダスは翌年の冬にペロポネソス半島へと南下してラコニアに侵入、スパルタの経済力の半ばを支えるメッセニアを解放し、アルカディア連邦を作り上げてペロポネソス半島中央にスパルタの力に対抗できる勢力を用意した。これが、レウクトラの戦いからほどなく、戦場の戦術を越えた次元で長期的な戦略・政策に基づき達成された、追撃の成果である。これは規模や距離は異なるものの、バルト海まで達したイェナの戦い後のフランス軍の戦略的追撃や、ノルマンディの戦いのあと連合国軍によって為されたライン川に達する戦略的追撃と、本質において相通じる行動である。これに対抗できるものはガウガメラの戦いの後のアレクサンドロスの戦略的追撃である。これらの例に、我々は、とてつもなく遠大な目的を達成する最高度の戦略を見ることができる。
ところで戦略の目的は有利に戦闘を始め、勝利の成果を最大限に確保するのみではない。戦略は戦闘開始を遅延させることもでき、あるいは決定的な状況を導いて戦闘を回避することさえ可能である。これについては一人の戦略家が賞賛に値する。マリウスがローマとイタリア諸都市の戦争における最初の作戦で守勢に立っていたとき、敵の指揮官──あきらかに以前の諸戦役での古い戦友であった──は彼に向かって「もしお前が偉大な指揮官なら、出てきて戦え」と叫び、マリウスは「おまえこそ偉大な指揮官なら、戦いに引きずり出して見せろ」と答えた(36)。巧妙に戦闘を遅延させた例としては、またもアンティゴノスがカルディアのエウメネスに挑んだ際の事実を取り上げるのが良いだろう。遠くで夜空を照らす野営地の火がアンティゴノスの接近を付近の村々に教え、エウメネスの下にはヒトコブラクダによって素早くこの報せがもたらされた。彼はできるかぎり適切に処置したものの、その軍勢は広く散開していたため、戦闘を行うには、集中に数日を要する状況であった。そこで彼はその時伴っていた数部隊を使って、高地上に周囲約13キロの区画を浮かび上がらせ、これをはるか遠くから接近中の敵軍に見せつけることにした。区画の外周上に約9メートルの間隔で火が灯された。その夜の第一夜警時に火の番をした者たちには明るく燃やさせ、第二夜警時には薄暗くし、第三夜警時には一部を除いて消してしまった。こうしてエウメネスは、夕食を調理し、就寝し、警戒に当たる見張りのために一部の火を残しているかのように見せかけて、戦いに備えて大軍勢が集まっている風を装った。アンティゴノスは当然奇襲が失敗したと推測し、そのまま進めば最低でもエウメネス軍の一部を撃破して補給を一部奪取できたにもかかわらず、前進を止めて、戦いの日に備えて兵士達を休息させることになった。(37)
ダンケルクの後に言われたように、戦争は逃げて勝つものではないし、さらに戦闘なしで勝つことは滅多にないと言っても良いだろうけれど、戦闘の遅延の上には、戦闘回避の戦略というものも存在している。最初に挙げたペリクレスの発言に引き返そう。彼の言う「優れた判断」は「堅実な戦略を」を意味していた。彼がアテナイ人をペロポネソス戦争に導いたとき、彼の陸上戦略は、アテナイが敗北するであろう会戦を、アッティカの田園部の全てから撤退してでも、回避することに向けられていた。彼の目的は敵の戦意を消耗させることであった。これは消耗戦略や摩耗戦略と呼ばれ、ナポレオンの撃滅戦略とは対照を成すものであった(38)。これは非難され続けているが、そのような非難を受けるべきものではない。また完全に消極的なものとは限らない。実際、七年戦争の古典的事例のように、戦闘では決着しないものの戦闘は行われるのだ。ペリクレスは敵を悩ませ害する小規模作戦を止めなかったし、敵が敢えて圧倒的な艦隊に挑む危険を冒してくるならば、大海戦ももちろん望むところであった。彼が存命で政策を主導していた時期には、この戦略は維持されていた。そして大規模とは言えないただ一つの会戦を別にして、アテナイはこの点に関しては、彼の戦略を固守し続けた。また、ついに十年後にはアテナイは和平に達するが、そこで手にしたものは、ペリクレスが達成しようとした以上でも以下でもなかった。彼が予見できなかったのは、疫病の大流行がアテナイの力を弱め、敵がアテナイの強さを打倒することはできないと納得する日が、遅れてしまうことであった。そしてもう一つ彼が予見できなかったのは、彼の非保護者のアルキビアデスが、アテナイにペリクレスの求めた平和を放棄させるに至ることであった。
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