名和長年(二)
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4.伯耆船上山
金剛山での幕府軍の苦戦は新興豪族を中心とした不平分子の蜂起を誘発した。まず播磨で赤松円心が挙兵し、幕府方を破って京へと迫る勢いを見せた。そして備前で伊東惟群が三石に篭城して山陽の街道を塞ぎ、四国では伊予の水軍勢力である土居・得能氏が反旗を翻していた。
さて隠岐の後醍醐は隠岐国守護・佐々木清高によって厳重に監視されていたが、彼の一族である布志那義綱が後醍醐に内通して脱出の手引きをした。更に義綱は出雲へ渡航して同族の出雲守護・塩冶高貞を説得しようとしたが、高貞は日和見をすることとして義綱を捕らえ手元に留めた。義綱からの連絡を待っていた後醍醐であったが、身の危険を感じてか閏二月二十四日に急遽脱出を決行。各地で頻発する反乱の中、幕府方が反乱軍の求心力となる後醍醐を暗殺する可能性を後醍醐が憂慮したとしても不思議ではない。
後醍醐は『増鏡』によれば二十五日に伯耆名和湊に到着したとされるが、一方で『古本伯耆巻』は四日間海を漂い出雲の各地を頼ろうとするも安全に上陸できる味方を得られず伯耆に上陸したのは二十八日であったと記している。恐らくは事前に見方と連絡を取って準備した上での脱出であり『増鏡』の方が理屈に合っていると思われるが、こうした冒険には不確定要素が付き物であるし後醍醐はしばしば危険を承知で見切り発車の決行を行っているため『古本伯耆巻』の内容も可能性はあり虚偽と斬って捨てる事は出来ないように思う。
さて伯耆に到着した後醍醐らは現地の有力豪族である名和氏を頼った。『太平記』によれば長年はこの時に一族を集め酒宴中であったと言われるが、弟長重の説得により後醍醐に味方するのを決意したと言う。後醍醐らが事前に何の連絡もない相手に身を寄せるほど愚かとは思えず、恐らくは脱出前から連絡を取り通じていたと考えるのが適当であろう。しかしこの時に分別盛りであった(と推定される)長年は、実際に頼られた際にも情勢を考慮して見込みがあるかを計算したものではなかろうか。ともあれ、かくして山陰の一豪族であった名和長年は歴史の表舞台に登場した。名和氏の館で敵を防ぐのは難しいため、彼は即日に後醍醐を伴って船上山へ篭る事とした。
その際、長年は周辺の住民に米一石を蔵から山上に運んだ者に銭五百文を払うと布告し、瞬く間に五千石の兵糧を船上山に移した。また白布百反で近隣の武士達の家紋を描いた旗印をつくり、山上に掲げて数多くの軍勢が終結しているように見せかけた。長年の機転と財力が伺える逸話である。船上山は修験道が盛んで五十二の僧坊を持つ船上寺が山頂にあった。船上寺は大山寺の末寺であり、大山寺は護良の令旨を受けて後醍醐方に味方していた。また、長年の弟である信濃坊源盛は大山寺衆徒であり、その縁もあって船上山を頼ったものであろう。あるいは長年が挙兵を決意した背景には源盛による誘いもあったかもしれない。『古本伯耆巻』は長年らの軍勢は大山寺衆徒を併せて六十人程度であったとする一方、『太平記』は名和勢は百五十人であったと述べている。いずれにせよ冒頭近くで述べた名和氏の動員兵力も考えると百人前後とするのが妥当であろう。
『太平記』によれば翌二十九日には、隠岐から後醍醐らを追ってきた佐々木清高・昌綱が手勢で船上山を包囲した。その総勢は三千。それに対し名和軍は逆茂木を備え、僧坊を防御施設として敵を待ち受ける。船上山の標高は高くないものの険阻で登りにくく攻めにくい要害であった。加えて、山上に翻る多数の旗によって佐々木勢は名和軍を大軍と誤認し攻撃を手控える。そこへ名和軍は兵力を見破られないようあちこちの木陰に身を隠しながら敵陣に矢を射掛けて混乱させようとしていた。『太平記』によれば、そうした中で昌綱が流れ矢に当たり不運な戦死を遂げ佐々木軍の半数近くが潰走する事態となる。清高はそれを知らず攻撃を続行するが、折からの雷雨に乗じた名和軍の奇襲攻撃で大きな犠牲を出すなど攻めあぐねていた。三月に入ると佐々木軍の苦戦を聞いた周辺の豪族が蜂起して名和軍に味方し、清高は敗走して小波城に篭るが勢いに乗る名和軍はこれを攻め落とし、伯耆守護の糟谷氏が拠点とする中山城も陥落させた。清高は敗走して隠岐の領地に逃れるが隠岐でも現地豪族が挙兵していて上陸できず、敦賀へと逃亡している。
この知らせは周辺諸国に瞬く間に伝わり、日和見を決め込んでいた出雲の塩冶高貞が布志那義綱を連れて参陣した他、美作・備前・安芸を始めとした中国地方全域の豪族が船上山に参集し天皇方は万を越える大軍となった。この時期には赤松円心が京へ攻撃を繰り返しており、三月十二日には九州でも菊池武時が挙兵。四国でも村上・忽那・大三島といった水軍勢力が長門探題の軍勢を破り瀬戸内を制圧していた。
短期間で中国・四国を押さえる大戦果に後醍醐は満足すると共に、孤立無援の状況から自らを守りつつ大功を挙げた長年に篤い信任を置くこととなった。一説によれば三月十五日に後醍醐は「君は船、臣は水、水よく船を浮かぶ」と述べて自らが描いた帆掛け舟の絵を家紋として下賜するという異例の待遇を与えた。また、『新葉和歌集』は後醍醐がこの頃詠んだ歌として
詞書
この御歌は、元弘三年隠岐の国より忍びいでさせ給ひける時、源長年御むかへにまかりて、船上山といふ所へなし奉りけるほどの忠ためしなかりし事などしるしおかせましましける物のおくにかきそへさせ給ひしけるとぞ
【この御歌は、元弘三年に隠岐国から密かに脱出なさったとき、源長年が御迎えに参上して、船上山という所へお連れ申し上げるという忠義が前例のないものであった事を記しなされた物の奥に書き添えなさったものであるという。】
忘れめやよるべも波のあら磯をみ舟のうへにとめし心は
【決して忘れまい。頼る先もなく荒波の立つ磯で船の上に留まっていたこの身を船上山に受け入れてくれたそなたの忠義の心を。】
を収録しており、ここからは後醍醐の長年に対する感謝の念が読み取れる。そして勢いに乗って三月十七日に後醍醐は側近の貴族である千種忠顕を総大将として京奪還の軍勢を編成し、指揮官として高重と源盛の二人が従軍した。長年は後醍醐を護衛するため船上山に残留している。忠顕は赤松軍と連絡して京を攻撃するが、実戦経験のない貴族が率いる寄せ集めの軍勢であり苦戦を強いられ大きい被害を出している。
後醍醐が隠岐を脱出し、西国を制圧して京に軍勢を派遣している事を知った鎌倉では、更なる援軍派遣を決定。第二陣として足利高氏・名越高家が上洛した。しかし高氏は道中で密かに後醍醐と内通。足利氏は源氏の嫡流と見なされる名門で北条氏に次ぐ勢力を持っていたが、北条氏への反発や天下への野望、更に粛清への恐怖から反逆の機会をうかがっていたのである。名越高家が赤松勢と合戦して戦死したのを契機に高氏は丹波で挙兵して赤松軍・千種軍と共に京に攻め込んだ。こうして京における幕府方の拠点・六波羅探題は陥落し、この知らせを受けた千早攻囲軍も崩壊。畿内は後醍醐方の手に落ちたのである。時を同じくして関東では上野の新田義貞が挙兵して鎌倉を陥落させ、北条一門は自害。鎌倉幕府は130年余の歴史に幕を下ろした。
正成の畿内での戦いが幕府の威信を低下させて不平分子を勇気付け、円心の京攻撃がそれに拍車をかけて後続を生み出し、長年の船上山での活躍が幕府の焦りを引き出し、それにより派遣された高氏の寝返りで形勢逆転、義貞が止めを刺した。そしてその影では護良がタクトを振っていた。倒幕の殊勲者はこの六人であったといえるであろう。
5.三木一草
鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐は五月十八日に船上山を出発し、兵庫を経て京へと還幸した。この際、長年は帯剣役・先陣を担う栄誉を与えられ、道中で合流した正成と共に後醍醐を護衛しながら六月四日に入京している。
さて、京に戻った後醍醐は、意欲的に自らの新政権建設に取り組んだ。この政権は当時の元号から「建武政権」と呼ばれ、当時台頭しつつあった商業勢力を基盤としつつ専制的な政治志向を示していく事になる。その中で長年は、業績と商業的な手腕をかわれて特に重用された。
建武政権では、後醍醐の専制志向に合わせて新たな役職が設けられていた。例えば、恩賞方が戦功のあった人物への論功行賞を、雑訴決断所が土地関係の訴訟を、記録所が一般政務を、武者所が天皇警護を担っている。長年は、記録所の五番勤務、武者所頭人、恩賞方の三番(畿内、山陽、山陰)勤務、雑訴決断所の五番(山陰)勤務を受け持つ重職となった。また、恩賞として伯耆・因幡両国の国守に任じられてもいる(足利氏が反乱した後には出雲も加えられた)。長年と同様な寵遇を建武政権において受けた人物としては楠木正成がおり、これに結城親光・千種忠顕を加えて「三木一草」と人々は言い習わした。この時期に従来の身分不相応に重用された四人を「楠木(くすのき)」・「伯耆(ほうき)」・「結城(ゆうき)」・「千種(ちぐさ)」という三つの「木(き)」と一つの「草(くさ)」に引っ掛けた洒落である。「三木」はいずれも検非違使の左衛門尉に任じられて(ただし長年は高齢であったため実際には子の義高が就任している)洛中の治安を任され、二条富小路の御所の傍らに屋敷を与えられるという篤い信頼を受けていた。しかしその中でも長年の待遇は頭一つ抜けており、正成さえも凌いでいた。正成が従五位上の左衛門少尉であり楠木一族で明らかに任官しているのが左近蔵人である正家だけなのに対し、長年は従四位上である。更に名和一族の任官者は長義(弟)が従四位下の中務少輔・但馬権守で高重(弟)が右馬允、義高(子)が正成と同じ正五位上の左衛門少尉、高光(子)が正六位上という異例さであった。そうした長年は人々の羨望を受けるに余りあり、彼の独特な烏帽子の被り方も「伯耆様」として持て囃された程であった。
更に、これに加えて長年は建武元年(1334)に東市正を拝命している。東市正は検非違使と兼任し洛中の市場管理に当たる役職で従来は中原氏が代々就任していた。決まった家が官職を相伝するのが通例であったこの時代に、前任者中原章香に失態がなかったにもかかわらずの交替であった。家職の相続体制を破戒して天皇が役職の任免権を完全に掌握すると共に、京の市場を自らの懐刀で商才に長けた長年に委ねる事で商工業を手中にしようというのが後醍醐の狙いだったのである。
また、京の防衛に関しても長年は重要な役割を与えられた。西の玄関口であり旧北条勢力圏である大阪平野の守りは正成が摂津・河内・和泉を賜り受け持ったが、大阪と同じく旧北条領の北陸に対する備えも劣らず重要であった。後醍醐は布志那義綱を若狭守護に任じ、洞院公賢を同国知行国主、伊賀兼光を国守に任命して信頼する面々で北の玄関口を掌握する。そして北から京に入る最後の関門・山城鞍馬口の守りが長年に委ねられていたのだ。
さて、政治的課題で当面最も重要なのが恩賞すなわち土地問題であったが、それが人々の不満を招き、更に朝廷の専制を目指す急進的な改革による混乱が人々の反発を高めた。恩賞処理に際して後醍醐は権力基盤確立のため広大な旧北条氏領を自身や側近の手に収めており、加えて倒幕戦中に乱発された後醍醐・護良による領地安堵が相互に矛盾する事例が続出した事、恩賞事務が混乱した事が大きな不満の種となっていたのだ。そうした中で各地の豪族達は名門・足利尊氏(高氏、後醍醐より御名「尊治」の一字を賜った)に期待を抱くようになり、尊氏は新興豪族を糾合しようとしていた護良親王と激しく対立する。後醍醐は密かに護良に尊氏を討つ事の了解を与える(正成・義貞のみならず長年も護良の計画に一時期参画していたという話もあるが、後醍醐の黙許なくしては考えられない)一方で、護良を自らの権威を脅かす危険分子として力を削ごうとしていた。自らの子を後醍醐の後継者にと望む阿野廉子(後醍醐の寵妃)がそれに同調し、尊氏と結びついて護良の失脚を図る。廉子・後醍醐は隠岐・伯耆時代に自らの支えとなった長年や忠顕、親光を直臣として重んじる事で護良に対抗しようとしていた。この関係は、後醍醐が尊氏に妥協する事で終止符が打たれる。建武元年(1334)十月下旬、長年は結城親光と共に参内した護良を捕縛したという。あるいは、この任に当たったのは親光と共に大夫判官であった子の義高ではなかったかとも言われる。護良は足利直義(尊氏の弟)がいる鎌倉へ護送される事となり、「今となっては帝が恨めしい」とつぶやいたと言う事である。
(三)に続きます。