C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 3章注
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(1)特に参照すべきものとしては以下の通り。Maurice, Artis militias(595年頃);Nicephorus II Phocas, νερι ναρδρομησ νολεμοτ(960年頃), in Corpus Scriptorum Historiae Byzantinae, V (Bonn, 1828);Leo VI, the Wise, Tactica(900年頃), in Migne, Pateologia Graeca, CVII (paris, 1863)
(2)Nicephorus II Phocas, 前掲書, p.230
(3)東帝国の貴族の軍人精神はなによりいその戦いによって示されている。George Finlay,History of Byzantine Empire(London, 出版年不明), pp. 335-339のバルダス・スクレロスとバルダス・ポカスの事例を参照せよ。
(4)Leo, 前掲書, ch. 18, cols. 966-967.この段落はレオの忠告の要約であり、場所によっては逐語訳ではなく意訳である。
(5)σκουτατιはビザンツの軍事用語における珍しいラテン語の残滓である。ラテン語の単語を翻訳する際、ギリシア人は音長には注意を払っていない。
(6)トルコ人が用いた弓矢を、アラブ人のものと勘違いした著述家たちのせいで、軍事史に甚だしい混乱が生じている。アラブ人は弓術の使い手ではなく、槍騎兵であった。アラブ人の戦いの例として持ち出されるドリュラエウムの戦いは、実はトルコ人が戦っているのである。
(7)Leo, 前掲書, ch. 18, col. 975.
(8)同書, col.
(9)同書, col. 974.
(10)同書, ch. 18, cols. 946-990. には様々な論評が散在している。
(11)レオンの時代にはオリエント軍団は分割されておらず、後に彼の子のコンスタンティノスによって分割されることになる。小アジアには8個の軍団があって、それぞれ同名の下位区分をもって組織されており、約4,000の重騎兵を用意できると見られていた。残りは「アルメニアコン、アナトリコン、オプシキオン、トラケシオン、キビュライオトン、ブケラリオン、パフラゴニア」の軍団である。オプティマトンは九番目の軍団で(コンスタンティノスが帝国に関する論文で述べているところでは)軍事機構を持っていなかった。Oman は著作の最後の版のI, 211-212で、レオンの書を以上のように解釈している。ただし Lot, 前掲書, I, 66-68, では東ローマ帝国が9世紀に30,000もの重騎兵を戦場に投入できたことは、疑わしいと確信している。
(12)戦闘隊形の概要についてはこの論文の次節を参照せよ。
(13)Tactica, ch. 18, col. 974.
(14)同書, col. 979.
(15)同書, col. 974.
(16)同書, cols. 978-979.
(17)同書, col. 979.
(18)中世においてもこのことは、おぼろげに認識されており、(ギボンによると)イタリアの年代記作家は彼のことを「最初のギリシア人皇帝」と呼んだ(Edward Gibbon, The Decline and Fall of the Roman Empire[Modern Library;New York, 出版年不明], II, 397)。
(19)例としては、コンスタンティノス・ポルフィロゲニトスは著書である Themata Orientis の中で「thema(地方軍団あるいは軍管区)」と中央軍(tagma)の創出をヘラクレイオスの業績としている。
(20)βανδον、bandumはユスティニアヌスの時代に一般化した。この語は、vexillum(軍旗あるいは分遣隊)のゲルマン語における同義語として、その両方の意味で使用された。
(21)Comes(伯)はコンスタンティヌスの時代には五人の上級士官だけを指した。
(22)この奇妙な単語が初めて見えるのはウェゲティウスで、そこでは蛮族軍の大群を指すにすぎない。(英語の「throng」を参照。)
(23)硬貨を参照せよ。πιστος εν θεσιλευς των ρωμαιωνの称号はアモリア王朝においてのみ普及した。
(24)Tactica, ch. 12, cols. 806-843.
(25)同書, ch. 6, cols. 722-734.
(26)同書, cols. 730.
(27)例えばκελικονとματζουκιον。
(28)centuryは10個のdecuryから構成されるが、decuryの兵士は16人であって、10人ではない。したがってcenturyは兵力160人である。centuryが3隊で「band」一隊であるから、その兵力は約450人になる。
(29)金貨であるが、その金の価値は大体20シリングに相当する。
(30)ニケフォロス・フォカスはΠαραδρομη Πολεμουの中で「アルメニア人は、いつも夜中は眠気で信頼できないので、決してこの杭の線に配置しては成らない」とする。
(31)Leo, 前掲書, ch. 4, cols. 698-699.
(32)ビザンツ貴族の真に軍事的な性質を理解するには、珍しい10世紀の小説である「Digenes Akritas」を通読し、タウルス山道の辺境区長官であるドゥカス家の一員が、力強く鎚鉾を振るって騎士道的な英雄としてあらゆる功績を立てるのを目にするのが最も良いだろう。(C. Diehl, "Byzantine Civilization," ch. xxiv in Cambridge Medieval History [London, 1936], IV, 76)
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