C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 5章四節
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第五章
スイス人
1315~1515
モルガルテンの戦いからマリニャーノの戦いまで
スイス人の優越の喪失原因
軍事科学のより高度で精巧な問題に関する無関心が、スイス同盟の力を弱めその名声を破壊する結果となった。イタリアでの大戦争が他のヨーロッパ諸民族の軍隊にとって学校として機能していた時に、彼らのみが学習しなかったのである。新たに発見された古代の著作から得られた、広範な理論が、近世の専門的な士官の体験と調和して、中世に知られていたものより、はるかに卓越する戦争術へと発展しつつあった。科学的な工兵と砲兵が戦争の様相を変化させつつあり、封建的伝統はあらゆる領域で廃棄されることになった。スペインの剣と小楯を装備した兵士や、ギリシア・アルバニアの軽騎兵、ドイツのマスケット銃兵からなる「黒帯隊」といった、軍事力の新たな形態が姿を現しつつあった。歩兵の携帯用火器の改良は重要で、これに優るものとしては野戦砲が手に入れた優れた機動力があるのみであった。
ところがスイス人はこれらの変化に全く注意を払わなかった。彼らを取り巻く世界は変わりつつあったが、彼らは先祖代々の戦法に固執していた。実際には、初期においては彼らの軍隊は勝利の栄冠に輝いてた。彼らはイタリアでも、そこより北の大地においてと同じように、「1万か1万5千[の槍兵]でどんな数の騎兵に対しても立ち向かい、」卓越した働きを示して優れた世評を勝ち得ていたように見える。(25)しばらくの間、彼らは最強の地位を占め、中央および南ヨーロッパのあらゆる国の軍事史に足跡を残すことになった。だが、幅広く科学的な戦争術の知識を欠いた人々が用いた、単一の固定した戦闘法によって、無敵の支配的地位を維持し続けることは不可能であった。スイス軍の勝利によって、有能で多才な軍人の全てが、密集部隊の突撃に対処する方法を模索し始めた。古い封建騎士と無能な中世歩兵が、スイス同盟軍の猛烈な突撃の前でも冷静さと結束を保つことのできる、規律ある軍勢へと急速に置き換わっていったことで、この模索の試みはかなり容易なものとなっていた。ブルゴーニュ公シャルルの常備軍は、指揮官の無能な統帥に加えて、均質性と結束の欠如のために、戦闘能力を喪失していた。その30年後にイタリアで戦った常備軍はこれとは全く異なる集団であった。いまだ様々な民族から召集されていたとはいえ、長年の友情、団結心、職業軍人としての誇り、優れた指揮官達への信頼によって、彼らは結束を固めていた。そのためスイス人は、かつて交戦した敵とくらべて、はるかに軍事的に有能な軍勢と対面することになったのである。
スイス同盟軍に対抗する最初の試みは、皇帝マクシミリアンによるもので、彼はドイツで敵と全く同じ戦い方ができるよう訓練された、槍兵とハルバート兵の部隊を召集した。この傭兵隊(Landsknechte)はすぐにスイス人に次ぐ名声を獲得し、スイス兵とも多くの戦場で激しく交戦した。彼らの抗争は民族的な競争心と軍事的な競争心が合わさって、深刻化し、スイス同盟軍は、敵軍が生意気にも彼ら固有の戦法で立ち向かってきたことに憤慨したし、一方ドイツ人は、アルプスの同族に勇気で後れを取らないことを見せつけるつもりであった。それ故、相争う部隊の衝突は恐ろしい物となった。槍を林立させた二つの戦列が入り交じり、突き進む縦列は、後方からの凄まじい圧力によって、互いに武器を押し込み合う。最初の突撃で、双方の密集部隊の最前列の兵士が全滅することもしばしばであり、それでも戦友たちは、その死体を乗り越え前進し、戦闘を続けた。(26)密集部隊が互いに押し合ってしばらくすると、隊列は乱れ槍は絡み合うことになった。これはハルバート兵が活躍する好機であった。(27)彼らを通すため隊列が開くと、 彼らは後方から殺到して、混戦の中に身を躍らせた。ここが戦闘の決定的な時点であった。兵士達は凄まじい速さで互いを刈り倒していった。彼らの重厚な武器は防ぐこともかわすこともできず、確実に致命傷を与えていった。攻撃を外した者や、倒れた戦友につまずいた者、逃走のために背を向けた者は、死ぬ運命にあった。慈悲を期待することも与えることあり得なかった。
もちろん、このように激しい白兵戦が長時間持続するはずはない。程なく、一方の軍が敗走し、撤退中に凄まじい損害を被ることになる。スイス軍に圧倒されたドイツ傭兵隊(Landsknechte)が、その兵力の半数を失ったノヴァラの戦いは(1513)、これと類似するものであった。ただし、勝利したにもかかわらず、スイス同盟軍の軍事的優越は縮小しつつあった。彼らはもはや、一度の突撃で無抵抗の敵を戦場から駆逐するというわけにはいかず、武器をとって抵抗する準備をした敵軍と対決することになり、これを駆逐するには最高度の圧力をかける必要があった。ビコッカの戦い(1522)では、ドイツ傭兵隊(Landsknechte)は撃破されながらも戦場に止まり、ついには、命取りとなる壕の前でスイス軍が混乱しつつ後退した時に、報復することに成功している。
さらに、少し後の時代には、ドイツ人以上にはるかに手強い敵が姿を現すことになった。ゴンサロ・デ・コルドバのスペイン歩兵は、ローマの戦法の強さを軍事史上に再現することになった。彼らは、古代のローマ軍団の兵士のように、刺突用の短剣と丸盾で武装し、鉄帽と、胸甲および背甲、すね当てを着用していた。そのため彼らは防具の点で、戦うべき相手であるスイス軍よりも、はるかに強力であった。これらの槍を持った兵士と剣を持った兵士が初めて激突した1503年には、バルレッタの防壁の下で、ピュドナ(紀元前168)とキュノスケファライ(紀元前197)と同じ事態がもう一度進行することになった。マケドニア王フィリッポスのものと同等に堅固で強力な密集部隊が、アエミリウス・パウルスの軍団と同じ戦法を使う軍勢と戦った。そして古の時代と同様に、短い武器の使い手が勝利したのである。
彼らが交戦に至った時、スイス軍は槍によって敵軍を激しく圧迫したが、そのため間もなく隊列に隙間が出来てしまった。そこでスペイン軍は丸盾で身を守りつつ、素早く突入して剣を振り回し、スイス兵を虐殺して、完全な勝利を獲得した。(28)
敗者は、スペイン軍の手によって、かつて自らがゼンパッハでオーストリア軍に与えたのと同じ扱いを受けることになった。長い武器で武装した者は、それが槍であるとハルバートであるとを問わず、敵が密着してきたことで無力化してしまった。マケドニアとスイスの密集部隊に穴が開いた瞬間、彼らの武器の長さが破滅の原因に変わったのである。もはや武器を捨てる以外に手はなく、それに続く戦闘では、剣に加えて盾を持ち、さらに優れた鎧甲一式で防御した敵兵を相手に、兵士達は、剣のみで防具を持たずに闘うという、絶望的に不利な状況に置かれることになった。槍と剣、それぞれを単体で用いての戦いが、いかなる結果に終わろうと、剣士の装備に小盾が加われば、剣士はそれだけで優位に立つことが出来る。盾によって槍の穂先を脇へと逸らして、そこから好きなように刺突用の武器を使うことが出来るのである。(29)したがって、スペインとスイスの歩兵が交戦した場合に、前者がほとんど全ての事例で勝利したことは、当然なのである。
だが、槍の無力さは、スペイン軍にとって好ましくない結果に終わった戦いにおいて、最も目立った形に示されることとなった。ラヴェンナの戦い(1512)では、ガストン・ド・フォワは、壕からドン・ラモン・デ・カルドナを駆逐することに成功し、強力な追撃によって勝利の戦果を確保しようとしていた。秩序を保ちながら後退していったスペイン軍歩兵を捕捉するため、ガストンは、フランス軍に傭兵部隊として参加していたヤーコプ・エンプザーの槍兵部隊を、前方へと送り出した。こうして後退中の部隊に襲いかかった軍勢は、その移動を足止めしようとした。ここでスペイン軍は、直ちに向きを変え、激しくドイツ人に襲いかかり、「槍へと突進するとともに、大地に身を投げ、槍の穂先の下へと滑り込み、槍兵の脚の間を突っ走った。」この様にして、彼らは敵に密着することに成功し、「剣を大いに活用したが、もしフランス騎兵が救出にやってくるという幸運がなければ、敵勢は一人も生き残らなかっただろう。」(30)16世紀の最初の四半世紀において、剣と丸盾のほうが槍よりも戦場の支配者にふさわしいと証明した幾多の戦いがあったが、これこそ、その典型であった。
ところで、これらの事実を前にして、どうしてスイス人の武器がこの後も存続したのに対し、スペイン歩兵がやがては独自の戦法を廃棄するに至ったのか、と疑問に感じられるかもしれない。この疑問に対する答えは、剣が騎兵突撃に立ち向かうに適さないと考えられていた点に求められるが、そのせいで槍は、この目的のため、銃剣の発明される17世紀末に至るまで、使用され続けたのである。マキャヴェリは、彼の行った古代ローマについての研究のせいで、古のローマ軍団の時代へと回帰したかのように見える、スペインの戦法に対しては、極めて熱烈な崇拝者となっていた。だがその彼でさえ、あらゆる場面で槍を馬鹿にする一方、著書である『戦術論』で主張した理想的な軍隊について、相当の割合で槍を維持しなければならないことを、認めている。彼は、他の武器によって、自軍に向けられた強力な騎兵突撃を防ぎうるとは、考えることができなかったのであり、それゆえ槍兵を、軽装兵(velites)と丸盾兵に、組み合わせざるを得なかったのである。
この他、工兵と砲兵の使用の急速な発展が、スイス軍の優位に強力な打撃を与えることになった。ルネサンス期の多方面における活力は、しばしば職業軍人をも研究者へと変貌させることとなり、彼らは、近世の戦争に役立てるため、古代の学術を受容することになった。当時、ウェゲティウスやヒュギウス、ウィトルウィウスといった著作家が尊重されていたが、彼らについての皮相的な研究ですら、ローマ軍の要塞化された野営地の強さを見せつけるに十分なものであった。そのため陣営構築術が復活することとなり、全ての軍隊が工兵部隊を保有するようになった。永続的な拠点のみならず、わずか数日留まるだけの野営地でさえ、壕で固めることが一般化した。適切な立地が選択され、野戦で劣勢の軍隊の場合には、防御のために、砲座を設けた長短の塹壕戦が建設された。イタリア戦争における大規模戦闘の多くは、この様な陣営の中あるいは周囲で行われたのである。ラヴェンナ、ビコッカ、そしてパヴィア(1525)はその明白な実例である。さらに頻繁に見られたのは、指揮官が自分の身と全兵力を要塞化した町の中に収め、その周囲を外塁と方形堡で固め、要塞都市ではなく塹壕陣地の外観を呈するに至った例である。
戦争の発展がこのような段階に至ったことは、スイス軍にとって極めて不利であった。彼らは障害物への接近法を教えてくれるような戦争術について、全く無関心であったため、その最大級の勇気をもってしても、石の壁や水で満たされた濠を越えて、敵を駆逐することはできなかった。スイス同盟軍は、その歴史の初期においても、難攻不落の位置にいる敵を攻撃する点では、決して高い能力を示してはいなかった。それが今や、敵は開けた平原に布陣するのと同じくらいの頻度で、防御施設の背後に隠れるようになり、それにもかかわらずスイス軍は、戦法を、変化した環境に、適応させることを拒んだ。それでも時には、例えば1507年にジェノヴァの外塁を強襲した時のように、彼らが激しい突撃のみによって目前の敵を一掃することも、不可能ではなかった。だが、十分な兵力と規律を誇る軍勢の保持する塹壕線に対し、軽率な突撃を行って大敗に至ることの方が、より以上に頻繁であった。その最も顕著な例は、1522年、スイス兵の部隊が、ビコッカの要塞化された広場から敵兵を追い出そうとした際に、見ることができる。彼らは、スペイン人のアルケブス銃兵の激しい射撃の下、帝国軍主力陣地の周囲を固めるいくつかの垣と水の貯まった濠を突破した。だが彼らが最後の壕と土塁に到着すると、それに沿う形でフルンツベルクのドイツ人傭兵隊(Landsknechte)が配置されており、ここで彼らは突破できない障害に突き当たったのである。深い壕に飛び込んで、前方の列の兵士達は反対側の斜面をよじ登ろうと努めた。だがその絶え間なく続く凄まじい突撃も、高みに立って密集隊形を組み、突きを繰り出してくるドイツ兵の槍の下に、阻止されてしまい、その全ての者が倒れることになった。スイス兵が無謀な企てを止めた時には、壕の中には3千もの死体が残されていた。これは履き違えた勇気という点で、1758年のイギリス軍によるタイコンデロガ攻撃に匹敵するものであった。
16世紀はじめの改良された砲兵は、スイス軍にとってより一層の打撃となった。あらゆる戦闘隊形の内で密集隊形は最も狙いが付けやすいものであり、どんな砲弾を受けた場合でも最大級の損害を出すことになった。砲撃が、その深い隊列を貫くと、一発で20人を負傷させることができたが、それでもスイス兵は砲列の前へと真っ直ぐ突き進み、凄まじい砲火にも屈さずに強襲をかけた。そのような行為は、火器が未発達で、敵が射程距離に入ってから砲口に迫るまでに、せいぜい一発しか射撃できなかった、15世紀には正当化できたであろう。だがペドロ・ナヴァロやエステ家のアルフォンソのような科学的な砲手は、機動性と射撃速度を高めることで、大砲を真の戦力へと仕立て上げた。それにもかかわらずスイス同盟軍は、四倍も五倍も危険なものとなっている正面攻撃を、40年間も使い続けた。この種の無謀な戦法に関する恐るべき教訓はマリニャーノの戦い(1515)で、そこではフランス騎兵隊の勇気ではなく、砲兵こそが勝利をもたらしたのであった。フランソワの顧問達がそこで用いた戦術は、砲兵が正面から攻撃する間に、スイス軍の側面へと、騎兵突撃につぐ騎兵突撃をかけるというものであった。騎兵突撃は、密集部隊を撃破するという点では全く戦果を挙げなかったけれど、ハリネズミ隊形をとらせて、これを足止めすることには成功した。騎兵隊は500人程度の部隊に分かれ、最初の部隊が敗退すると、次の部隊が戦闘を引き継いだ。「このようにして、30回を越える鋭利な突撃が繰り出され、この後には、もはや誰も、騎兵は鎧を着た愚者にすぎないとは言えなくなった」と王は母親へと書き送っている。もちろんこれらの攻撃は、それのみでは何の成果もないものであった。だが、これらの攻撃が、スイス軍の前進を阻止して、戦いの帰趨を決める砲火の下で停止することを強いたのも、また事実であった。(31)最後には密集部隊は大損害を出して前進をあきらめ、撃破されはしないものの兵力を半減し、秩序を維持したままで撤退していった。
スイス同盟軍の軍事的優越が喪失した要因の最後のものは、止まるところを知らない規律の低下であり、これは重要度で他の諸要因に劣るものではない。他の諸民族において指揮官達が、ますます戦争術に練達していった時に、スイス人の指揮官達はますます軍隊の奴隷へと成り下がっていった。権威の分散は戦略判断にとって有害であったが、今や戦術計画すら不可能にしつつあった。この軍隊は自らを、規律を持った軍事集団というよりも、首脳の判断への介入が可能な民主的団体であると見なしていた。自分たちの突撃が無敵であると盲目的に確信していたために、彼らは自分たちに無駄に思える命令は黙殺したのである。いくつかの場面では、彼らは迂回するはずであった陣地に対し、正面攻撃を加えている。この他、敵の別部隊が到着するまで待機する命令を受けながら、戦闘を開始したこともあった。戦況が良くない場合には、彼らは指揮官に対して見せかけの服従すら放棄した。ビコッカの戦いの前には、「穀潰しの高給取りの士官どもはどこにいる?引きずり出して、一度、給料にふさわしい働きをしてもらおうではないか。今日は奴らはずっと先頭で闘うべきだ。」との叫びがあがった。だが、この要求の傲慢さよりも、さらに驚くべきはこの要求が受け入れられたことである。指揮官や隊長は前方へと進み出て、先頭の部隊の先端部を形成したのである。彼らの内、この戦いで生き残った者はほとんどおらず、前衛集団の指揮官であったウンターヴァルデンのヴィンケルリートが、最初にフルンツベルクのドイツ傭兵隊(Landsknechte)の槍の下に倒れた。兵士が命令し士官がその実行に当たるような軍隊に、いったい何が期待できるだろうか?こうして、スイス軍が蛮勇と無謀のみを誇っている時に、戦争の新たな流派に属する科学的な指揮官達が、彼らの前に立ちはだかるようになったのである。そして、その結果はまったく予想を裏切らなかった。ヨーロッパの覇権を握った槍兵戦法は、硬直化して追い落とされ、スイス人は世界最強の歩兵の栄誉を失うことになったのである。
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