高師直(四)
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10.武庫川の惨劇
観応元年(1350)十月十五日、大友氏の代官、少弐氏の代官、そして桃井直常といった直義派の面々が京を出奔した。そして同十六日に九州で直冬が挙兵し、二十六日には直義が京から脱出。こうした情勢で京を空ける事に不安はあったが、同日に師直・師泰は尊氏に従って直冬討伐のため出陣した。翌日、備前三石から福岡へ向かうつもりであったが、直義は南朝に帰順して挙兵し、大和・河内を経て京への進軍を開始。翌年一月十三日には桃井勢が京へ侵入して義詮を追い出している。知らせを受け引返した尊氏・師直は義詮と合流して入京、桃井軍七千と戦う。この時、東山に陣取る桃井軍に対し師直が五千の兵で西正面から攻撃。激しく戦う間に佐々木導誉の二千が東寺を経由し今日吉に出て桃井軍の背後を衝いた。更に尊氏自らが一万を率いて二条から北白川へ出て側面を撃った。こうして直常は敗れて関山に逃れたが、にもかかわらず尊氏の兵が八幡の直義の下に流れるため、尊氏・師直らは播磨書写山に退いた。一方石見で直義方の上杉軍と戦っていた師泰が勝利して尊氏と合流。八幡から五千の兵で攻めて来た石塔頼房はその勢いを恐れ光明寺に篭る。これを尊氏らが攻撃し攻倦む間にやはり直義派である石塔義基・畠山国清が七千を率いて後詰として参陣。尊氏軍二万は挟撃を恐れ兵庫に逃れた。二月十七日、摂津打出浜で尊氏・師直軍は直義軍と決戦を挑む。この時、尊氏・師直らは味方を2つに分け挟撃する作戦を立てたが、国清は衝突を避け兵を松や藪に伏せて矢を射ける。苛立った師直らは突撃するが犠牲を増やすばかりであり、そこへ畠山軍の攻撃を受け敗走を余儀なくされた。一方、南に控える別働隊も石塔軍の攻撃を受け劣勢であった。結局、師直・師泰兄弟が負傷したのを契機に戦いは敗北に終る。
同じ頃、関東では常陸信夫荘の上杉能憲、上野の上杉憲顕が挙兵し、師冬は一月十七日に甲斐須沢城で上杉憲将・諏訪直頼らに囲まれ自刃した。敗北した師直は師冬を頼って船で鎌倉へ行こうとしていたが、二月二十日に時宗僧から師冬の死を知らされ意気を失う。そこで尊氏は饗庭氏直を八幡へ遣わせ、直義に講和を申し出た。直義からの条件は、師直・師泰の出家であった。薬師寺公義は最後に一戦して命運を開くか敗北しても名を残すべしと反対したがこれは退けられ、師直は禅僧(法名道常)、師泰は念仏者(法名道勝)として降伏した。しかし、その途中の武庫川で、二月二十六日、兄弟とも一同に紛れ込んだ上杉能憲(重能養子)の手のものにより惨殺されたのである。『園太暦』によればこの時殺害された高一族の名は以下の通りである。師直、師夏、師泰、師世、師景、師兼、師幸。これが権勢を誇った師直のあっけない最期であった。因みに生き残った高一門の内、師秋と重茂は直義派である。現在、その場所には「師直塚」がポツンと立っている。また、光得寺境内には「前武州太守道常大全定門」、「観応二年辛卯二月廿六日」と記された五輪塔がある。それが師直の墓である。
11.「騎馬武者像」と師直
蛇足ながら、嘗て尊氏像とされていた騎馬武者像と師直の関係について述べたい。江戸後期の「集古十種」に尊氏像と紹介されて以来、最も有名な「尊氏像」となってきたが、画像上部に義詮の花押が据えられており、子が父の像の上に花押を据えるのは不遜だという異論が出された。また、像主が戦闘中の姿で描かれていることから、像主の軍忠に対する証判の意味合いを花押が持つと考えられるのである。そして、太刀の目貫と馬具の四方手に足利の家紋ではない輪違紋が描かれているのである。同一紋が2箇所に書かれており、その一箇所が先祖相伝の太刀であるから、この紋が像主の家紋であることは明らかである。義詮周辺の輪違紋を有する人物となると師直が有力視されるのである。しかし、異論もある。当時の輪違は唐菱を内包していなかったというのがその根拠である。像主については未だ定説は存在しない。
12.おわりに
当時の複雑な情勢や師直の歴史的な位置づけも詳しく説明すべきだったかもしれないが、本文では師直個人の伝記に留めた。師直は足利政権における有能な軍政家であり前線指揮官であった。南朝軍の攻勢によって足利方が相次いで敗れ危機に陥った際に複数回にわたって登用され、北畠顕家・楠木正行といった南朝の有力武将を討ち取ったという実績を持っており足利方にとっては切り札的存在として認識されていた事が伺える。現在でも、南北朝期における最強クラスの指揮官と認識される事があるようだ。しかし、師直が大軍指揮にたえる統率力の持ち主で当時としては優秀な戦術指揮官であった事は事実であるにしても、やや過大評価の気味があるように思われる。顕家の軍は師直と戦った際には奥州から長途遠征し青野原で大きな打撃を受けていた状況であったし、正行は率いている兵力が少数であった。師直は非常に有利な条件で戦っていた訳であり、有利な状況で順当な戦果を出したと評価すべきであろう。そして師直には、顕家や楠木父子、更に尊氏のように戦術的に不利な状況を覆した実績があるわけではなく、逆に直義指揮下で主力部隊として義貞と戦った際には直義に引きずられるようにして敗北している事を考えると、当代第一の指揮官とまで評価するのは苦しいかもしれない。とはいえ、有利な条件があれば名将相手でも順当に勝利できる程度には力量がある訳であり、味方の戦略的危機を二度までも打開した実績があるのも事実である。足利方の中では、将軍尊氏その人に継ぐ戦上手であったとは言えよう。
また、師直の最大の政権への功績は、(元来は南朝の支持基盤といえる)畿内の新興豪族を配下に組み入れて足利方の優位を不動とした事であろう。師直は「南北朝期最強の指揮官」ではないにしろ、優秀な軍政家であり当代としては一級の指揮官として足利政権初期の優位確立に大きな貢献をなした人材と呼べるではなかろうか。
ただ、かれの軍政家としての手腕はあくまで戦時下のものであり、平和的な秩序を回復しようとする直義とは衝突せざるを得なかった。これは、当時の足利政権が尊氏・直義の二頭体制を取っていた事もあって政権が二つに分かれて凄惨な内紛に陥る結果となる。この内紛の結果、二頭体制は解消され将軍による近世的な専制体制へと足利政権は向かうのであるから無意味なものではなかったのであるが。
こう考えると、師直は足利政権にとって功罪ともに大きな存在であると思われる。軍事政権として確立する際や既存の権威を破壊する際には不可欠であった一方、安定した統治体制を固める上では障害となった側面があるのは否めない。師直一族は、足利政権が戦時下の軍事政権から本格的な全国政権へと脱皮しようとする中での生贄になったと見る事が出来るのかもしれない。
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