本居宣長『石上私淑言』より「もののあはれ」を見る 訳:NF (二)
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(一)はこちらです。
ところで「阿波礼(あはれ)」というのは、深く心に感じる事を意味する言葉である。これも後世になると、ただ悲しい事だけを言うようになって、「哀」の字を宛てるが、「哀」はただ「阿波礼」の中の一つに過ぎず、「阿波礼」は「哀」の心情だけとは限らない。「万葉集」には、「'忄可'怜」などと書いて「阿波礼(あはれ)」と読ませていた。これもただ一面的な意味合いで書いたものであり、「阿波礼」の意味は表現しつくしていない。「阿波礼」は元は嘆息の言葉であり、何事でも心に深く思う事を言って、上の人であれ下の人であれ嘆息する言葉である。「阿那(あな)」と言ったり、「阿夜(あや)」と言ったりするのと同じ類である。『日本書紀』仁賢天皇紀に、
「吾夫'忄可'怜矣、此レヲ阿我図摩播耶(あがつまはや)ト云フ」
(「吾夫'忄可'怜矣」は、これを「我が配偶者よ、ああ」という意味である)
とある。皇極天皇紀で、「咄嗟」を「阿夜(あや)」と読んでいる事からも同様な事が分かる。また漢文で、「鳴乎」「于嗟」「猗」などの字を、「阿々(ああ)」と読むことが多い。この「阿々」も同じ嘆息の言葉である。『古語拾遺』には、
「此ノ時ニ当リ、上天初メテ晴レ、衆倶ニ相見テ、面皆明白ナリ。手ヲ伸ビテ歌ヒ舞ヒ、相与ニ称ヘテ曰ハク、阿波礼(あはれ)、阿那於茂志呂(あなおもしろ)、阿那多能志(あなたのし)、阿那佐夜憩(あなさやけ)云々」
(この時になって、天は初めて晴れ渡り、人々は互いに見つめあい、その顔はみな明るく光っていた。手を伸ばして歌い踊り、互いに称えあって言うには、「あはれ、ああ面白い、ああ楽しい、ああ明るい」等々)
とある。この文の真偽には疑問があるがこれら古語であると思われる。これは天照大神が天の岩屋からお出でになったときの文である。それなのに「阿波礼」は「天晴れと言う意味」などとなっている注釈があるが、後人の憶説であり信じるに足りない。学者はこの文に惑わされ、「阿波礼」は天晴れの意味であると思っているので、今ここで論じるのである。ここで「阿波礼阿那(あはれあな)」と重ねているのも、みな嘆息の言葉である。
日本武尊の御歌に、
尾張に直に向かへるひとつ松あはれひとつ松人にありせば衣きせましを太刀はけましを
(尾張にまっすぐ向いている一本の松よ、ああ、この一本松が人であったなら衣を着せただろうに、太刀を身に付けさせただろうに)
やつめさす出雲建がはける太刀つづらさはまき真身なしにあはれ
(出雲建が身に付けていた太刀は、葛を多く巻いて立派なのに刀身がないとは、なんとまあ)
とあるしこの他にも「思ひ妻あはれ、影姫あはれ」などと言っている歌もある。聖徳太子の御歌にも、
飯に飢てこやせるそのたびとあはれ
(食事に飢えてやせ細っているその旅人よ、ああ)
とお詠みになっている。これらは哀れんでいるように聞こえ、それを哀れに思うという意味に見えるが、それは後世に出来た意味である。太古の意味はそうではない。これらも皆嘆息の言葉であり、「影姫はや」「旅人はや」と言っているのも同じである。日本武尊が「吾妻者耶(あづまはや)」(ああ私の妻よ)とおっしゃり、允恭天皇紀で、「うねび山」「みみなし山」を、「宇泥咩巴揶(うねめはや)」(畝傍山よ、ああ)、「弥々巴揶(みみはや)」(耳成山よ、ああ)と新羅の人が言ったなどを、思い合わせれば理解できよう。
さて「阿波礼牟(あはれむ)」という言葉は「あはれ」と思う心情を意味する。「かなし」と思うのを「かなしむ」と言うのと同じである。だからこれも一般に深く心に感じる事を指し、「なにをあはれむ」「かをあはれむ」というのである。愛する事には限らないのである。しかし一般に言葉の使い方も時代ごとに換わり、本来の意味とは違っていく事が多いものであり、「阿波礼」という嘆息の言葉も、後には様々な意味に用いて、少しずつその意味も変わるのである。『万葉集』の大友坂上郎女の歌で、
早川のせにをる鳥のよしをなみ思ひてありしわが子はもあはれ
(早川の瀬にじっとしている鳥を見て訳もなく思い出していた我が子よ、ああ)
とある。この「あはれ」も、『古事記』『日本書紀』の歌で詠んでいるのと同じ意味合いである。また作者未詳の歌で、
なごの海をあさこぎくれば海中(わたなか)にかこぞなくなるあはれそのかこ
(奈呉の海を朝に漕いで来ると海の中で鹿の子が鳴いている、ああ心引かれるその鹿の子よ)
かききらし雨のふるよを郭公(ほととぎす)なきてゆくなりあはれその鳥
(力を切らして雨の降る夜を不如帰が鳴いていくよ、ああ心引かれるその鳥よ)
とある。これは同じ意味であり、言い方が少し違うのである。上述の歌は両方とも文字は「'忄可'怜(あはれ)」と書いている。この二字を仁賢天皇紀では「播耶(はや)」と読んでいたので、「あはれ」も嘆息の言葉である事が分かる。
また『万葉集』第十八、ほととぎすが鳴くのを聞いて詠んだ長歌で、家持卿が、
うちなげきあはれの鳥といはぬときなし
(嘆きながら、ああ心引かれる鳥だと言わない時はない)
と詠んでいる。これは少し後世の詠み方に似ている。前に引用した歌の言い方と違っている。その理由はまず上代の歌に詠んだ形は、「一松あはれ」「旅人あはれ」「あはれ其鳥」などのように、その物にふれて心が動くときに、「某あはれ」と嘆息する言葉である。「あはれ其鳥」と詠んだのも、「ああ其鳥」といった様に、これも同様に嘆息する言葉である。しかし今の「あはれの鳥」と詠んだ言い方は少し変わっていて、「あはれ」と嘆息するものをさして、「あはれの鳥」といった。
その後になると『古今集』で、
荒れにけりあはれいくよの宿なれや住みけむ人の訪れもせぬ
(荒れているなあ、ああ、いつの時代の宿であろうか。住んでいたであろう人も訪れもしない)
あはれむかしへ有りきてふ人丸こそはうれしけれ
(ああ、昔にいたという、人麻呂こそはすばらしいものだ)
とある。『拾遺集』で藤原長能が、
東路の野路の雪間を分けてきてあはれみやこの花をみるかな
(東国の街道で野道の雪の間をかき分けてやって来て、ああ、都の花を見ているのだなあ)
と詠んだ。これらの「あはれ」は、完全に嘆息の意味であり、後世までこの用法が残った。俗に天晴という言葉は、この「あはれ」を縮めて言う言葉である。また『古今集』で、
とりとむる物にしあらねば年月をあはれあな憂と過ぐしつるかな
(取り留めて言うような自分ではなかったので、長年をああ、つらい事だと過ごしてしまったなあ)
とあり、また長歌に、
すみぞめの夕べになればひとりゐてあはれあはれとなげきあまり云々
(墨で染めたように真っ暗い夜になれば一人でじっとして「ああ、ああ」と嘆きの余り云々)
とある。これらも嘆息する意味である。また『蜻蛉日記』の言葉で、
「関の道あはれあはれと覚えてゆくさきを見やりたれば云々」
(関所の道を「ああ、ああ」と思って行く先を見ると云々)
とあるのも同様に、心の中で嘆息しているのである。
また『古今集』で、
あはれてふことをあまたにやらじとや春におくれてひとり咲くらむ
(「ああ」という言葉をあちこちに出させまいとしているのか、春が過ぎてから一本だけで咲いているのは。)
あはれてふことだになくば何をかは恋のみだれの束ね緒にせむ
(「ああ」という言葉すらなければ、何を恋で乱れた心を束ねまとめたらよいのだろうか)
あはれてふことこそうたて世の中を思ひはなれぬほだし也けれ
(「ああ」という言葉はつらいものだ、世の中から思いを捨てられない束縛であるから)
あはれてふことの葉ごとにおく露はむかしを恋ふる涙也けり
(「ああ」と言葉を出すごとに、葉の上に結ぶ露のように昔を恋慕して流す涙である事よ)
とあり、『後撰集』で、
散ることの憂きもわすれてあはれてふことを桜にやどしつるかな
(散ってしまう事のつらさも忘れて、「ああ」という言葉を桜にかけることだ)
あはれてふことになぐさむ世の中をなどか悲しといひてすぐらむ
(「ああ」という言葉で心慰められる世の中を、どうして悲しいと言って過ごすものか)
聞く人もあはれてふなる別れにはいとど涙ぞ尽きせざりける
(聞く人も「ああ」というであろう悲しい別れにはただ涙が尽きないものである)
というのがある。これらの歌に「あはれといふ言」とは、心で深く感じて、「あはれ、あはれ(ああ、ああ)」と嘆息する言葉である。あの「春におくれと」という歌などは、人が見て「あはれ、あはれ」と感嘆する言葉を、他の木に言わせず、自分ひとり言われようと、春が過ぎてから一本だけ咲いたのか、と詠んだのである。他はこれになぞらえれば分かるであろう。
(三)に続きます。