本居宣長『石上私淑言』より「もののあはれ」を見る 訳:NF (三)
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(二)はこちらです。
更に『万葉集』作者不詳の歌で、
すみのえの岸に向かへるあはじ嶋あはれと君をいはぬ日はなし
(住之江の岸の向かいにある淡路島よ、「ああ」とあなたを思って嘆息しない日はない)
『古今集』で、
世の中にいづらわがみの有りてなしあはれとやいはむあな憂とやいはむ
(世の中に何処にもわが身の居場所がない、「ああ」と言ったものか「ああ辛い」と言ったものか)
『後撰集』で、
あはれ共憂しともいはじかげろふのあるかなきかに消ぬる身なれば
(「ああ」とも「辛いことだ」とも言うまい、陽炎のようにあるかないか分からぬほど儚く消える実であるから)
『拾遺集』で、
あはれとも君だにいはば恋ひわびて死なむ命も惜しからなくに
(「ああ」とあなたさえ嘆息して言ってくれればあなたを恋焦がれて死ぬであろうこの命も惜しくないというのに)
あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな
(「ああ」と嘆息せずにはおられない、思ってもいなかった、この我が身もむなしくなってしまうのだろうとは)
こぬ人を下にまちつつ久かたの月をあはれといはぬ夜ぞなき
(来ない人を待ちつつも月を「ああ」と嘆息しない夜はない)
とある。これらの「あはれといふ」と詠んでいるのも、心で感じて「あはれあはれ」と嘆息するのを「あはれといふ」と言うのである。例えば「人をあはれといふ」は、その人に感じて嘆息するのである。わが身を「あはれ」と言い、月を「あはれ」と言うのもみなそういった意味である。
また『古今集』で、
よそにのみあはれとぞ見し梅の花あかぬ色香は折りてなりけり
(他所でだけ「ああ」と感嘆して見ていた梅の花よ、飽きる事ない色や香りは折り取ってのものである)
むらさきの一もとゆゑにむさし野の草はみながらあはれとぞ見る
(心引かれた紫草一本のせいで武蔵野の草を全て「ああ」と嘆息して見ることだ)
とあり、そして『拾遺集』で、
山里は雪ふりしきて道もなしけふこむ人をあはれとは見む
(山里は雪が降りしきって道もない。今日来る人を「ああ、気の毒に」と嘆息して思う)
月影をわがみにかふる物ならば思はぬ人もあはれとや見む
(月の光を我が身の代わりにするならば、思いを寄せてくれないあの人も「ああ」と嘆息して思いを込めて見てくれるだろうか)
とあるのであり、これらの「あはれと見る」も、心で「ああ」と嘆息して見るのである。また、
(NF注:この間に四行ほどの空白あり)
これらのように「あはれと聞く」というのも同じ意味あいである。また『古今集』で、
色よりもかこそあはれと思ほゆれ誰が袖ふれし宿の梅ぞも
(色よりも香こそが「ああ」と思われる。誰の袖が触れたのであろうか、宿の梅よ)
我のみやあはれと思はむきりぎりす鳴く夕かげのやまとなでしこ
(私だけが「ああ」と思うのだろうか、きりぎりすが鳴く夕方の撫子よ)
たちかへりあはれとぞ思ふよそにても人に心をおきつ白波
(立ち返って「ああ」と思う。他所でも沖の白波のように人に心を引かれることよ)
あはれとも憂しとも物を思ふ時などか涙の糸なかるらむ
(「ああ」とも「辛い」とも物思いにふけるとき、なぜ涙を繋ぎとめる糸がないのだろう)
ちはやぶる宇治の橋守なれをしぞあはれとは思ふ年の経ぬれば
(宇治の橋守よ、お前を「ああ、いとしい」と思うよ、長年を経てきたので)
とあって、『拾遺集』には、
身をつめば露をあはれと思ふかなあかつきごとにいかでおくらむ
(我が身となると、露を「ああ、いじらしい」と思う。暁ごとにどうやって結んでいるのだろう)
とある。これらに「あはれと思ふ」と詠んでいるのも、同様に心で感動して感嘆している意味である。このように「あはれといふ」「あはれと見る」「あはれと聞く」「あはれと思ふ」は、どれもそのものに対して心が動かされて嘆息する事である。
そしてまた『拾遺集』で、
思ひでもなきふるさとの山なれどかくれゆくはたあはれなりけり
(思い出もない故郷の山であるが、見えなくなっていくと心動かされる)
年ごとに咲きは変れど梅の花あはれなる香は失せずと有りける
(毎年咲く花は違うけれど、梅の花の心動かされる香は消えずに残っている)
とある。これらは、あの家持卿が長歌で、「ああ」と嘆息させられる物を指して、「あはれの鳥」と詠まれたように、故郷の山は心動かされて「ああ」と嘆息させられるという意味で、また「あはれなる香」とは、「ああ」と嘆息させられる香という意味である。
(四)に続きます。