本居宣長『石上私淑言』より「もののあはれ」を見る 訳:NF (四)
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(三)はこちらです。
さて上述の歌で詠まれた「あはれ」は、どれも用言(動詞、形容詞、副詞など)の言葉である。それを体言(名詞)の言葉で言ったのもある。
『後撰集』で、
あたらよの月と花とをおなじくばあはれしれらむ人に見せばや
(せっかくだからこの月と花とを同じ事なら情趣を解する人に見せたいものだ)
『拾遺集』で、
春はただ花のひとへに咲くばかり物のあはれは秋ぞまされる
(春はただ花が一様に咲くだけで、物の情趣は秋が勝っている)
とある。このように体言でも言うのである。
さてこのように「阿波礼」という言葉は、様々に言い方は変化しても、その意味は皆同じであり、見る物、聞く事、する事にふれて、心が深く感動する事を言う。俗にはただ悲哀だけを「あはれ」と考えているけれど、そうではない。一般に嬉しくとも、興深くとも、楽しくとも、悲しくとも、恋しくとも、心の感じることはみな「阿波礼」である。だから面白い事や、興深い事などをも「あはれ」という事が多いのだ。物語文などでも、「あはれにおかしう」「あはれにうれしう」などと続けて言う。『伊勢物語』で、「此男、人の国より夜ごとにきつつ、笛をいとおもしろく吹きて、声はおかしうてぞあはれにうたひける」とあるのは、笛を面白く吹いて歌う声の興深いのが「あはれ」なのである。「蜻蛉日記」で、「つねはゆかぬここちも、あはれにうれしう覚ゆることかぎりなし」とある。これもまた、満足して嬉しい事に対して「あはれ」と言った。ただし『源氏物語』など、その他にも物語文には、「おかしき(興深い)」と「あはれなる」とを反対の意味で言う事も多い。これは総合的に言うのと、別々に言うのとで変わるのである。総じて言えば、「おかしき」も「あはれ」の中に含まれる事は上述したとおり。別々に言えば、人の感情が様々に動く中で、興深い事、嬉しい事などに動かされる度合いは浅く、悲しい事や恋しい事などには動かされる度合いが深い。なのでその深く動かされるほうを、特別に「あはれ」と言う事がある。俗に悲哀だけを「あはれ」と言うのも、こうした意味合いからである。例えば一般に草木の花は多い中で、桜をとりわけ花といって、梅に対比するようなものである。『源氏物語』若菜巻で、「梅の花を花のさかりにならべてみばや」(梅の花を桜の花の盛りと並べて比べて見たいものだ)と言っているのがそれである。また十二律(NF注:中国音楽の十二の音律)と言えば「呂」(NF注:中国音楽の陰音)もその中に含まれているが、別々に言えば六律(NF注:中国音楽の中の陽音)・六呂と対比しているのと同じだ。だから「阿波礼」というのを、感情の中の一つにして言うのは、区別して言う後の事である。その本を言えば、一般に人の感情が物事に触れて動くのはすべて「阿波礼」である。だから人の感情が深く動く事を、すべて「物のあはれ」というのである。
○『新古今集』恋五、清原深養父の歌に、
「うれしくは忘るることも有りなましつらきぞ長きかたみなりける」
(嬉しいものは忘れる事もあるのに、辛いものは長らく残る事であるなあ)」
とある。これは嬉しい事は感情の度合いが浅いためである。
さてその「物のあはれ」を知っているのと、知らないのという区別はというと、例えばすばらしい花を見て、美しい月に向かって、「ああ」と心が動くのが、すなわち「物のあはれ」を知ると言う事である。これはその月や花の「あはれ」な趣を、心で理解しているため感動するのである。その「あはれ」な情趣を理解していない心は、どれほどすばらしい花を見ても、美しい月に向かっても、感動する事がない。これはつまり「物のあはれ」を知らないと言う事である。月や花だけではなく、一般に世の中のありとあらゆる事に触れて、その情趣や心を理解し、嬉しいはずの時には嬉しく、興深いはずの事は興深く、悲しいはずの事は悲しく、恋しいはずの事は恋しく、それぞれに感情が動くのが「物のあはれ」を知ると言う事である。それをなんとも思わず、感情が動かないのが「物のあはれ」を知らないと言う事である。だから「物のあはれ」を知る人を「心ある人」と言い、知らない人を「心ない人」と言うのである。西行法師の歌の、
心なき身にもあはれはしられけり鴫たつ沢の秋のゆふぐれ
(情趣を解しないこの身にも「あはれ」は感じられることだ、鴫が立ち去る沢の秋の夕暮れは)
のこの上の句で分かるであろう。『伊勢物語』で
「むかし男有りけり。女をとかくいふ事、月日へにけり。岩木にしあらねば心ぐるしとや思ひけむ、やうやうあはれと思ひけり。」
(昔男がいた。女にあれこれと懸想するのが、長年にわたっていた。女は心のない木石ではないので気の毒だと思ったのであろうか、だんだん「ああ」と情が惹かれるように思った)
とある。『蜻蛉日記』には、
「いふかひなき心だにかく思へば、ましてこと人はあはれと泣く也。」
(つまらない心の自分でさえこう思うのだから、ましてや優れた人は「ああ」と心引かれて泣くのである。)
とある。これらから「物のあはれ」を知るという意味合いが分かるであろう。更に詳しくは『紫文要領』でも述べている。
さて「物のあはれ」を知る事から歌ができてくる事は、『古今集』第十九で、古歌を奏上した時の目録の長歌として、貫之が、
ちはやぶる神の御代より、呉竹のよよにも絶えず、あま彦の音羽の山の、春霞思ひみだれて、五月雨の空もとどろに、さよふけて山時鳥、なくごとに誰も寝覚て、唐錦たつ田の山の、もみぢ葉を見てのみ忍ぶ、神無月しぐれしぐれて、冬の夜の庭もはだれに、ふる雪の猶きえかへり、年毎に時につけつつ、阿波礼てふことをいひつつ、君をのみ千代にと祝ふ、世の人の思ひするがの、富士の嶺のもゆる思ひも、あかずしてわかるる涙、藤衣おれる心も、やちぐさの言の葉ごとに云々。
(神の御代から、呉竹の節のように世が絶える事無く、こだまの音が響く音羽山の、春霞に思い乱れて、五月雨の空に雷がゴロゴロと轟き渡り、夜も更けて山の不如帰が、鳴くたびに誰もが眠りから覚め、中国由来の錦のような龍田山の、紅葉の葉を見て偲び、神無月には時雨が降り、冬の夜は庭にはらはらと、降る雪がまた消えかかり、年毎に時節につけて、「あはれ」と言いながら、君主のみを千年栄えあれと祝う、世の人の思うことは駿河の国の、富士の嶺で燃える火のような思いも、飽きる事無いうちに別れる涙、喪服をまとった心も、様々な言葉ごとに云々)
と詠んでいる。ここで奉った古歌は、貫之自ら詠んでおいた歌という事ではない。序に、「万葉集に入らぬ古き歌奉らしめ給ふ」(『万葉集』に入らない古い歌を奏上なさる)とあるのが、この古歌の目録の意味である。神代から詠んできた四季・恋・雑の様々な歌は、ことごとく一つの「物のあはれ」から出てきたという意味であって、この長歌の目録の中に、四季と恋・雑との間に、「年ごとに時につけつつあはれてふことをいひつつ」(年ごとに時節につけあはれということを言いながら)とおっしゃっているのは、その前後の四季・恋・雑の歌は、みな時節につけつつ「物のあはれ」に触れて、「ああ、ああ」と嘆息しながら出来た歌であると言う意味である。その「物のあはれ」の品々を、目録に詠んだ長歌なのである。
○『源氏物語』松風巻によれば、「むかしの人もあはれと云ひける。浦の朝霧へだたりゆくままに、云々。」とある。これは人麻呂の「ほのぼのと」の歌の事である。この歌に「あはれ」という言葉はないが、この浦の朝霧の景色に心動かされ、この歌を詠んだ事を指して、つまり「あはれといひける」と書いたのである。歌を詠むのは「あはれ」というのと、同じ意味である為である。
『後撰集』第十八には、
ある所にて、簾の前にかれこれ物語し侍りけるをききて、内より女の声にて、あやしく物のあはれしりがほなる翁かなといふをききて、貫之
あはれてふ事にしるしはなけれどもいはではえこそあらぬ物なれ
(ある所で、簾の前であれこれと話をしましたのを聞いて、内側から女の声で、「不思議に物のあはれを知ったかぶりした老人であるなあ」と言うのを聞いて 貫之は
「あはれであるという事に証はないけれど、言わずにはいられぬものであるなあ」
と詠んだ。)
とある。歌は「物のあはれ」から出てくるものであるから、歌仙である人を指して、「物のあはれしりがほなる」(「物のあはれ」を知ったかぶった)と言っているのが面白い。ところで貫之が返答で、「あはれてふこと」と詠まれたのは、前にも言ったように、物に感動して嘆息する言葉である。「ああ、ああ」と言って嘆息したからと言って、何の利益もないのだが、「物のあはれ」の堪らぬ時は、言わずにはおれないものということだ。さてこの詞書に、「あやしく物のあはれしりがほなる」と言ったのは、貫之である事を知って、歌詠みぶっているという事を、ほのめかして言った言葉である。返答もその意味を理解して詠んだのである。歌を詠んだからといって何の利益もないのだが、「物のあはれ」に堪えられぬ時は、詠まずにはいられないものだという心情である。『土佐日記』で、
「もろこしもここも思ふにたへぬ時のわざとか」
(中国でもここでも思いに堪えられない時のすることであるか)
と、歌を詠む事を指していっている。また
「都のうれしきあまりに、歌もあまりぞおほかる」(都に着いたのが嬉しい余りに、歌も余りにも多く出来た)
といっているのも、嬉しさの余りその情に堪えられず詠み出した歌が多かったという事である。嬉しいと思うのも情が動く事であり、「物のあはれ」である。『栄花物語』楚王の夢の巻で、
「歌は情をのぶといひてこそ、おかしきにもめでたきにも、あはれなるにも、さまざまの人のまづよみ給ふものなめれ」
(歌は感情を述べると言って、興深い時にも、素晴らしい時にも、悲しい時も、様々な人が詠みなさるものであろう)
と言っているのは、「あはれ」を区分して一つの感情にしていっている事は前に述べたとおりである。一般的に言うときは、興深い事もすばらしい事も、みな「物のあはれ」である。これらから、歌は「物のあはれ」からできる事がわかる。
参考文献に続きます。