4 指揮・命令の下し方 ~組織はグダグダ、部下に丸投げ、日本流の悪しき統帥~
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問題提起(1巻)
士卒に命令する際は指図旗によって行うという。諸流一致して、そのための大将の采配の振り方、組頭・足軽大将の采配の振り方など、教え伝えている。しかし百騎に満たない軍勢なら、なるほど采配で動かすこともできるだろう。二、三百、四、五百人に及んだならば、隊列の前に騎馬で乗り出て、全体から見えないところで采配を振っても、軍勢を引き上げるのか攻め掛かるのかも見分けることができないだろう。これについてはどう理解するべきだろうか。
補足(2巻)
第4条の疑問についても、抜かりないとばかりに返答する軍学者もいるであろう。甲州流・越後流ともに旗に合わせて動くことがある。これは二公の本来の軍法に無いことを、後から付け加えたに過ぎない。そもそも、旗に合わせた戦いは異国の軍法であって、全体的に部隊の外観が我が国では変わっているので、それにあわせて指揮の仕方は自由に考案して良い。世間の軍学者は異国の本来の軍法を理解せず、浅知恵でその断片を二公の軍法に付け加え、采配の見えないところへは別に方法があるなどと語っているが、二公の本来の軍法に無いことなので、ほとんど拍子が合っていない。二公の時代のやり方と全く異なってしまっている。部隊の進退は、使者を遣わして行ったことが、諸家の記録に明白なのである。軍法々々と言うけれども、そもそも二公の軍法にしても細かな法は存在しないのである。子細を述べれば、日本の戦いは専ら士卒の知恵を借りて戦ったのである。そのため敗軍の将も罪を負わない。異国の戦いは士卒の知恵を用いずに戦い、勝負の行方は完全に大将が掌握しているため、敗軍の将は死罪とされるのである。夏・殷・周の時代にも敗軍の将は故郷の戸籍に載せなかったことが、礼記において見ることができる。また二公の時代には、組頭のほかに指揮権を認められた者が三・四人もあったという。これは軍法が存在しない明白な証拠である。各部隊を率いる侍大将の判断で戦闘をしかけ、総大将の命令は行き届かなかったので、ただ一隊のみを駆使したというのが真相であり、飾り毛で士卒を指揮したことは当然の理屈である。したがって旗に合わせるなどというのは、太宗問答から知らないことを断片的に取り入れたに過ぎない。この他、兜の頭頂部に開けている穴について、古くよりの言い伝えを失い、八幡座と名付け、侍はそれぞれに指物をさして、ほろを掛けている。これは全て軍法がない歴然たる証拠である。この条以下の七条はこの軍法が無いという点につき、詳述していくことになる。
反論および再反論(5巻)
第4条の疑問についてであるが、まずは二公の時代に旗によって合図したことは無いとの言い分について。二公の古戦にも旗によって合図したことは、いくらでもあり、人の良く知っている例で言えば、三増合戦における甲州の合図の旗、上田合戦の真田の合図の旗、秋山伯耆の八王子合戦など、みな合図の旗によって行ったものである。それを知らないはずはないが、これは全て迂回部隊や伏兵などの信号旗に用いたものであるから、移動停止・前進後退などの際に、異国の法のように旗を用いることがないという意味であろうか。異国のように細かな合図が無いからと言って、信玄時代に旗の合図がないとは言うべきではない。
張紙 目には旌旗の色を見、耳には金鼓の音を聞くというのは、異国の軍法の通例であって、それ故旗によって合図するというのは、そのような分合進退の合図をすることを指して言っており、迂回部隊や伏兵の信号の旗のような、一時限りの方策は、軍法全体の問題には関係のないものであり、本条の趣旨を、日本式のやり方に旗の合図がないという問題に限定して捉えていることは、本気で困っているのであろう。言ってしまえば、命令が行き届かない点があるという意味において、日本式の軍法が異国に劣っているというのが、本条の趣旨である。その趣旨を脇に押しやっての返答は、とにかく論争に勝てれば良いという意図と見受けられる。
また二公の軍法においては細かな法が存在せず、各部隊を率いる侍大将の判断で戦いを仕掛け、総大将の命令は行き届かなかったと言う点については、なるほど二公の合戦は、専ら士卒の武勇を訓練し、兵を強くすることで戦うから、合戦の気風は男伊達のようなもので、蔑むべきもののように見えているのであろう。
張紙 男伊達とはまたひいきの過ぎる評価である。戦国の一般兵士は、現在の鳶職人のようなものであった。侍大将は人食い犬のようなものである。それを乗りこなして良く統率することが、戦国の諸大将の器量であった。この点については物師の物語を聞かなくてはなかなか思い至らないことである。たとえ話を聞いてみても、現在の軍学者では、でたらめな統率を見てかえって偽伝と感じるかもしれないが、時代の違いによる差というものがあるのである。これ故戦国の名将の古いやり方は、大将が変わったこともあり、現在の平和な世の中の人間には一つも用いることができないものだ。平和な時代の軍法は、平和な時代に合わせて考えるのが好ましい。これが私見である。
秀吉公の合戦などは、二公よりは命令がよく行き届いているように見える。それならば命令の行き届く、行き届かないは、その将の器量によるものであって、旗によって合戦するか否かには関係ないことと思われる。
張紙 将の器量によるとの言い分について。これは前々に述べた通り、軍略の話である。何事も将の器量の問題として譲り渡してしまうのであれば、軍法は無くても良いと言うことになる。
また敗軍の将の罪科の問題や、士卒が指物を指して母衣をかけ標識とすることは、我が国の風俗がそうさせているのであって、軍学者が責任を負うことではなく、論じる必要はない。
張紙 敗軍の将が罪を負わないこと、指物を指し母衣をかけ標識とすることは、日本式の戦いには軍法という物が無い証拠として引いたまでのこと。とはいえこの違いによって日本式の戦争には軍法がないと言っても、たいていの人は理解できないであろう。またこれを国の風俗などと主張するのは、例によって軍事の風俗が移り変わるという事実を知らないため、何事も現在の軍学者の言うことを、日本古来、日本武尊の頃よりそうなっているものだと、思いこんでいるのであろう。ところがこれは我が国の風俗でもなく、現在の風俗に過ぎない。軍法の真理に達した人ならば、現在の風俗の悪しき点を正すべきである。軍学者が責任を負うことではないと言い逃れるのは、軍学者に対してひいきしている様にしか聞こえない。
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