戦国合戦の真実 ~荻生徂徠レポート~ 戦国の実戦経験者の証言を元に
|
彼は医者の子ながらも、先祖は武士、各地の武士に知人・親類が数多おり、東西諸大名家の実戦経験者の証言を多く集めることが出来る立場にありました。その結果、彼は軍学者の議論の胡散臭さを見抜くことが出来るだけの分厚い軍事知識を身につけるに至ったのです。
そんなひと味違う軍オタ荻生徂徠の戦国合戦論は、最近このブログで現代語訳を掲載した兵書『鈐録外書』にコンパクトに良くまとまっています。
しかしコンパクトとは言っても、それなりの分量がありますし、これを全部ネット上で読むのは辛いという方もおられるでしょう。
また戦国合戦論以外の、現代軍事論、軍学者批判なども多く含まれていますから、戦国合戦論のみ欲しい人にとって、少々めんどくさい本であるのもまた事実です、
そこで、今回は『鈐録外書』の戦国合戦論の要点を抜き出してまとめ、皆様のご利用に供しようと思います。
なお、『鈐録外書』の詳しい内容に興味のある方は、こちらに現代語訳の全文がございますので、そちらをご参照ください。
現代語訳『鈐録外書』 ~近世最高の軍オタ荻生徂徠が戦国合戦と江戸兵学を論じる~
戦国合戦の真実 ~荻生徂徠レポート~(『鈐録外書』より)
戦国時代の戦法の発展
【集団戦法の発展】
侍槍の起源は、鉄砲が出現して以来、戦の有様が以前と替わって一段厳しくなったため、正面決戦で一騎打ちすることもなくなり、侍が五十も百も一直線になって、槍を棒の替わりにして敵をたたき崩すようになったのである。昔は何としても得意な武器を使用したのであるが、このやり方の方が勝利が多いので、一番槍・二番槍というものを優れた功績と定めて、いつの間にか作法のようになったのである。(1巻)
鉄砲が盛んに使われるようになると、両軍の面前での一騎打ちということは、ほぼ無くなってしまった。場合によっては起こることもあるが、優れた武功とはいえ一個の武勇に過ぎない。一番槍は大勢の兵士を先導する大功だが、二番槍は多くの場合は存在せず、後続が素早く全員一丸となって槍を入れた側が、戦に勝利できるのである。(4巻)
【鉄砲普及の概要】
鉄砲の普及の概略は氏康公の時、小田原に鉄砲一丁が初めて到着し、信玄・謙信二公の時代は、その半ば頃まで軍中に鉄砲は存在せず、末頃になってようやく鉄砲が行き渡ったとされている(4巻)
戦闘の実相
【戦国の槍や刀の使い方】
戦は大混雑するもの故、ひたすら滅多叩きに叩いたのである。そのため戦闘中の槍の使い方は、上段に持ち、半かぶりにして、敵の兜から腕にかけて打ち込めと教えたのである。しかし敵も槍を差し出して来ることから、槍の上を打つことになって、ただ槍と槍の打ち合いになってしまうのである。戦闘中の技はこのように荒々しく、滅茶苦茶なのである。槍に限らず刀もこの通りで、先述の福西九郎太夫は数度にわたって高名を馳せたが、高麗諸陣に使った刀で試し斬りを行っても、皺寄った皮膚さえ切れなかった(4巻)
【指揮統制の仕方】
軍法々々と言うけれども、そもそも[信玄・謙信]二公の軍法にしても細かな法は存在しないのである。子細を述べれば、日本の戦いは専ら士卒の知恵を借りて戦ったのである。(2巻)
全体として、戦の仕方は士卒にそれぞれ功を立てさせるやり方なので、侍に指物・四半といった標識を付けさせ、後ろから見えるようにすることになる。(3巻)
また二公の時代には、組頭のほかに指揮権を認められた者が三・四人もあったという。これは軍法が存在しない明白な証拠である。各部隊を率いる侍大将の判断で戦闘をしかけ、総大将の命令は行き届かなかったので、ただ一隊のみを駆使したというのが真相(2巻)
【戦国の将兵の気性】
戦国の一般兵士は、現在の鳶職人のようなものであった。侍大将は人食い犬のようなものである。それを乗りこなして良く統率することが、戦国の諸大将の器量であった。(5巻)
【槍衾の隊列は乱れやすい】
杉形になってしまうのは、これは戦闘時の通例であり、物師の物語りもこの通りである。(4巻)
【陣形について】
だが合戦の時に至っては、その形の崩れることがなく、そのままであるなどということは無い。そのため謙信流でも方円・鋭直などという形は役に立たないと言い、常に横一線に布陣するのである。妥当な話であろう。(1巻)
全て陣形の法については、元々異国からの伝来であって、大江匡房が源義家に伝えたところ武家に広まっていったけれど、その後武士は文盲となり、陣形の法に関する真実を失ってしまった。魚鱗・鶴翼は、車輪・虎翼と書いている書物を覚え間違って、文字を付け替えてしまったものである。(4巻)
【戦国の騎馬戦法】
さて関八州・甲信二州・奥州は馬の産地で、武士はみな今の牧民のように騎馬に巧みであったため、主に騎馬戦を行っていた。東国の弓矢の風俗は、古代から最近まで、このようであった。上方は馬が下手だったので、徒歩戦闘を第一にしたが、これまた上方の昔からの風俗である。(4巻)
もちろん東国にも徒歩戦闘はあったけれども、こればかり教えるようになって、騎馬戦が消え失せたのは、信長の下から秀吉が天下を取り、そこから徳川家に移り変わる中でのこと、おおむね信長以後の軍法である。また鉄砲のことは既に述べたとおり、信玄・謙信二公の時代も末になって鉄砲が行き渡ってきたが、それでも盛んに使われたわけではない。(4巻)
他方関東武士は極めつけの文盲である。上方の侍は仮名交じりの文章を綴る程度のことはできるのだが、戦国の時代もこの通りであった。そのため信玄・謙信二公の流儀も、多くは上方武士の覚え書きをかき集めたものである。上方武士は馬に熟練しておらず、騎馬の侍も馬より下り立ち、徒歩となって働くのを、見聞きし覚え書きしておいたのを、太平の世になって軍法として学習することになったため、戦は全てこういうものだと諸流派一同に作法のように考えているのである。(3巻)
戦国武将論
【武田勝頼】
勝頼とて現在の軍学者たちが言うような馬鹿者でもなかった。(4巻)
【小西行長】
行長は、関ヶ原で敗戦して生け捕られたため、今時の軍学者は大したことのない人物と思っているらしいが、太閤の眼鏡にかなって、加藤清正と行長が両先鋒として高麗へ派遣されたのである。行長は晋州各所の城を乗っ取り、王城まで攻略したほどの人物で、事の成否の結果のみ見て軽んじて良い将ではない(4巻)
【上杉謙信・蒲生氏郷など】
[南条]玄宅は中国地方で名を知られた猛将で、越後の謙信に似た大将である。(6巻)
そのほか川中島合戦は、本当は信玄公がこの上ない大敗を喫したのである。これにもまた明らかな証拠が残っている。(6巻)
氏郷の戦いも謙信に似ている。(6巻)
関連記事
現代語訳『鈐録外書』 ~近世最高の軍オタ荻生徂徠が戦国合戦と江戸兵学を論じる~
決定戦国最強武将 ~信玄vs謙信どっちが強いか?~ 大学者の導き出した結論
軍事史概説 戦略と戦術の東西文明五千年史
とらっしゅのーと軍事史図書室(軍事関連の重要記事へのリンク集)