「聖人たちがルームシェア、じゃなくて一緒に色町遊びに行ってたら」~徳川中期の創作作品『聖遊郭』~
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ところで、こうした宗教的にゆるい時代は現代だけではないようです。徳川時代もどうやら大概だったようで、以前読んだ本には
ともかく、文学、芸能における表現について見るなら、江戸時代において、宗教が等しなみに、諷刺と皮肉、いや笑いとからかいの対象とされていること、驚くばかりだ。じつに気軽、お手軽に、笑い物にされ、パロディ化されている。今、正確に題名が思い出せないのだが、釈迦と孔子とが、吉原へ女郎買いに出かけたらという設定の演物(だしもの)に出くわして、欧米の同時代を思い合わせて、肝をつぶさんばかりの驚きに打たれた覚えがあった。(佐伯彰一『神道のこころ』中公文庫 55頁)
と書かれた部分が。他地域と比べてどうかというのは分からないのですが、確かに大した「ゆるさ」です。当時の日本社会における「二大聖人」というべき仏陀と孔子がルームシェアどころか色町遊びに行くという設定の娯楽作品があるというのですから。
さてここでは作品題名には言及されていませんが、どうやら問題の作品は十八世紀半ばに生まれたもののようです。当時、知識人たちが手慰みの創作にいそしむ風潮がありました。歌舞伎や遊郭も好きであった彼らは、教養を散りばめながらも俗語を用いた文章で芝居・遊女を題材にした作品を描いたのです。中には漢籍に明るい作者も多く、元ネタにするケースも多々見られました。
で、お目当ての作品は、宝暦七年に書かれた『聖遊郭』。遊女屋を経営しているのが盛唐の詩人・李白であり、そこへ釈迦・孔子・老子が来合わせて会話を楽しむというもの。そして彼らの相手を務める遊女の名が、釈迦には仮世太夫、孔子には大道太夫、老子には大空太夫とそれぞれの思想イメージにあわせたものになっています。
徳川期になると、つくづくこの辺りの感覚が現代とほとんど変わらなくなっていますね。わずか百五十年ほど前には、一向一揆やら島原の乱やらといった宗教的性格が強い戦いをしていたのが嘘のようです。
【参考文献】
黄表紙・洒落本の世界 水野稔著 岩波新書
神道のこころ 佐伯彰一 中公文庫
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/021206.html)