第二次大戦中の日本における都市文化・娯楽文化~空襲までは何とか踏ん張ってました~
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「ぜいたくは敵だ」「ほしがりません勝つまでは」
そうしたスローガンの下、第二次大戦において日本国民は一心不乱に祖国の勝利を信じて国家に奉仕したと言われています。そうした時代において、余暇や都市文化といったものは否定的に見られたであろう事は想像に難くありません。この時代の都市生活について少し見ていくことにしましょう。
戦争が長引くにつれて物資不足が深刻化すると、昭和十五年(1940)より米・味噌・醤油・酒などが配給となりました。その結果、翌年における帝国ホテルのレストランではフルコースで肉の代わりにオムレツ・フランスパンを使ったそうです。それを目にした子供が「やあ今日はすごい代用食だ」(山本夏彦『誰か「戦前」を知らないか』文春新書 157頁)と喜んだという切ない話も残されています。物資不足に苦しみながらも、可能な限り通常に近い形で営業しようと努力していた事が読み取れます。
そうした努力を精一杯行っていたのは他の飲食店も同様で、蕎麦屋・おでん屋も営業時間こそ短くなるものの空襲が本格化する昭和十九年まで営業していたところが多かったそうです。麹町の名物うなぎ屋である「丹波屋」、芝口の牛鍋屋「今朝」も昭和十八年までは営業。また文人・画家などが愛用した事で知られる銀座のバー「ルパン」も昭和十六年に「麺包亭」と改称を余儀なくされながらも昭和十九年に政令で休業させられるまで継続していたとか。これも接客業の意地と誇りにかけた「戦い」だったのでしょう。実際問題として、商売をとめてしまうと生活できなくなりますしね。
この時代、娯楽産業はどのようにしていたのかも見てみましょう。プロ野球の主要開催地であった後楽園球場は、昭和十五年ごろから「征戦愛馬の夕」「日本海海戦ページェント」「軍用競争大会」など軍事色が強いイベントで客寄せをするようになったと伝えられています。そして野球の試合前にも、マウンド付近の「米英撃滅」と書かれた板にボールをぶつけるアトラクションを行っていました。球界は選手の中から少なからぬ戦死者を出しながらも、時流にあわせた客寄せで生き残りを図り昭和十九年途中までリーグ戦を継続。また遊園地も、兵器展示といった戦時色を強めながらも、それを売り物に客を寄せレジャー空間であり続けようとしていたそうです。
当時における一般市民の意識に関しては、昭和十八年春の出来事が象徴的でしょう。この年の四月三日は神武天皇祭で翌日は日曜日。連休ということで、東京・上野・新宿といったターミナルは日光・熱海へと向かう行楽客で溢れ返りました。現地の旅館は満員で、野宿を余儀なくされる人々も多数。そんな中、マスコミは彼らを「時局をわきまえぬ不届き者」と糾弾し、災難にあったのは天罰ときめつけたとか。
外食・娯楽といった都市文化産業は、物資不足や統制といった圧迫を受けながらも空襲が本格化する戦争末期までは継続の努力を続けていました。そして一般の人々も、レジャーを楽しもうという意識をその時期までは持っていたといえそうです。空襲本格化までは、都市文化・都市生活は人々の努力によって辛うじて機能していました。戦時下における日本人も、現代と同様に可能な範囲で生活を豊かにし娯楽を楽しもうとする一般市民であった事がよく分かる話です。
【参考文献】
誰か「戦前」を知らないか 山本夏彦 文春新書
日本史の快楽 上横手雅敬 角川ソフィア文庫
追憶のロスト・ボールパーク 失われた球場物語 ベースボール・マガジン社
日本の遊園地 橋爪紳也 講談社現代新書
昔噺「銀座・ルパン」
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/021206.html)
第二次大戦にあたり日本を滅亡のふちから救うべく苦闘した首脳たちに関して、社会評論社『敗戦処理首脳列伝』で扱っています。興味のある方は御参照いただけますと有難いです。
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