主要戦国大名家の祖先たち in 南北朝(前半)
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注意事項
北朝・南朝の陣営区分は便宜的なものに過ぎません。当時は同族でも敵味方に別れたり、別の陣営に移ったりしています。彼らは自身の思惑で生き残りや勢力拡大を策しており、形の上ではどちらかについていても実際には独自の動きをしている場合も珍しくはありませんでした。
北海道
蠣崎氏(松前氏):南北朝後に成立
渡島半島南部に安東氏配下の豪族が見られるようになるのは、足利中期以降である。南北朝期には、彼らの姿は見られなかったようだ。16世紀前半に蠣崎氏が和人豪族を統一。蠣崎氏の出自は『戦国大名研究』によると、松前氏の記録では若狭武田氏の近親出身としている一方、南部氏の記録によれば南部氏分家出身で南部本家との戦いに敗れ松前に逃亡したともいう。16世紀半ば、客将・武田信広がコシャマインの乱を鎮圧し、蠣崎氏の養子となった。信広は若狭武田氏出身とされる。文禄二年(1592)、慶広が豊臣秀吉から蝦夷地支配を公認され、慶長四年(1599)に松前と改姓。
東北地方
秋田氏:北朝
安倍貞任の子孫と伝えられる。鎌倉期には安東氏を称し、北条氏の代官として奥州で勢力を振るった。だが、鎌倉末期に内紛。『戦国大名研究』によれば南北朝期には尊氏についたという。実季の時代に秋田氏を名乗るようになる。
津軽氏:南北朝後に分家
近衛家の末裔と称し、後に近衛本家がそれを公認している。だが、『金沢系図』によれば南部氏の分家だったという。南北朝期には、まだ分家を果たしていない。為信の時代、元亀二年(1571)に南部氏から自立し天正十八年(1590)に秀吉から所領の安堵を受けた。
南部氏:南朝
甲斐源氏の流れ、加賀美遠光の三男・光行が祖。甲斐国巨摩郡南部郷を拠点とした。後に陸奥国糠部郡の地頭職を与えられたともいう。南北朝期には師行が北畠顕家の下で南朝方として働く。師行が顕家とともに石津で戦死した後も、政長が南朝について戦い、支配領域の拡大を目指す。後に足利政権に降伏。以降は京都御扶持衆として鎌倉公方と対抗し、支配領域の維持を図った。
最上氏:北朝
足利氏の一族・斯波氏から分家。斯波家兼が足利政権から奥州探題に任じられたのが由来である。さらに延文元年(1356)にその子・兼頼が出羽最上郡に入って羽州探題となった。一門の分裂に悩まされ、一時は伊達氏に攻め込まれた。義光が一門を統一し庄内方向に勢力を広げるものの、兵農分離が進捗せず家内が混乱。徳川政権に取り潰される。
伊達氏:南朝
藤原山蔭から数え六代の孫・朝宗が常陸国伊佐荘に土着。源頼朝による奥州遠征で功を挙げ、陸奥国伊達郡を賜った。建武政権では、行朝(1291-1348)が奥州将軍府に評定衆として参画。南北朝期も引き続き北畠顕家の下で戦う。顕家が戦死した後も、北畠親房と共に常陸国に入り伊佐荘を拠点に戦う。その後も南朝方として陸奥で転戦したが、正平二年(1347)に霊山城が陥落したのを契機に足利方に降った。
合一後は、京都御扶持衆として鎌倉公方と対抗。15世紀に政宗(大膳大夫)はそれによって勢力を伸ばす。戦国期にも有力者として君臨し、稙宗が陸奥守護、晴宗が奥州探題となった。晴宗の孫・政宗の代に会津方面に進出するが豊臣秀吉に屈服。徳川政権の下では仙台藩62万石として存続した。分家が伊予宇和島に10万石を与えられている。
※片倉氏:北朝
伊達政宗の重臣・片倉景綱を輩出した事で知られる。以下、『戦国大名研究』より。藤原利仁の末裔と称し信濃片倉村が由来であったという。建武年間、奥州探題となった斯波氏について奥州に入った。16世紀半ば、伊達晴宗に臣従。
葛西氏:南朝
坂東八平氏の一つで、下総国葛西御厨が拠点。清重は頼朝の奥州遠征で功を挙げ、奥州総奉行となる。この際に胆沢・磐井・牡鹿に所領を与えられた。南北朝期には、清貞が南朝方として北畠氏につき転戦。後、足利氏に帰順する。戦国期には胆沢・江刺・気仙に一大勢力を築くが、やがて伊達氏に押される。秀吉の小田原攻めに参陣できず所領没収された。
相馬氏:北朝
千葉介常胤の子・師常が祖。下総国相馬郡を由来の地とする。頼朝の奥州遠征で陸奥国行方郡を賜った。元亨三年(1323)に重胤が行方郡に赴く。南北朝の動乱では多くが北朝方についた。ただし、相馬胤平は南朝方につく。南北朝合一後、京の将軍と結び鎌倉公方に対抗。戦国期には伊達氏と激しく抗争したが生き抜き、豊臣秀吉から本領を安堵された。徳川政権でも大名として存続。
大崎氏:北朝
足利氏一族の斯波家兼を祖とする。名字の由来は下総国大崎荘とも陸奥国大崎とも言われる。奥州探題を歴任し、詮持の頃から大崎氏を名乗ったようだ。志田・玉造・長岡・賀美・遠田・栗原を領有し、玉造郡名生城を拠点として現地豪族を統括。戦国期にも一族や宿老の助けを得て大名として存続するが、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣せず所領没収された。
蘆名氏:?
三浦半島西岸の「蘆名」が由来。三浦義明の子である佐原義連が頼朝から会津を与えられたと伝わる。『戦国大名研究』によれば南北朝期の活動は明らかでなく、北条氏についていたため逼塞を余儀なくされた可能性があるという。
戦国期には盛氏が安積・安達にも勢力を伸ばしたが、やがて伊達氏に滅ぼされる。
関東地方
佐竹氏:北朝
源義光の常陸介となり、孫の昌義が佐竹郷に土着したのが由来。源平争乱期には平家についたため、頼朝から勢力を削られた。南北朝期には、貞義・義篤が足利尊氏について戦い常陸守護に。後、内紛に苦しめられるが、16世紀初頭には義舜が常陸北部を掌握する。義重の時代には常陸南部に進出、義宣は有力豪族らを暗殺し領地を掌握した。秀吉に所領を安堵されるが、関ヶ原の戦いで西軍につき秋田に移される。
後北条氏:北朝
いわゆる後北条氏は、伊勢氏を由来とする。伊勢氏は平維衡の末裔と称し、鎌倉末期には足利氏の近臣となっていたようだ。元徳二年(1330)には足利氏が守護を努める上総国で守護代となっている事が確認される。義満が将軍の際、貞継は政所執事に任じられる。以降、代々政所執事を輩出。伊勢盛時(いわゆる北条早雲)は備中荏原荘に所領を持ち、足利政権に申次衆として仕えた。その関係で今川氏と縁があり、今川氏内紛を調停するため東国に下った。その後、堀越公方を討ち、伊豆・相模へ勢力を伸ばす。
早雲の子・氏綱の代で北条氏を名乗った。氏直までの五代にわたり関東に勢力を広げ覇を唱えるが、秀吉に敗北。
里見氏:南朝
新田義重の子・義俊が上野国の里見郷に拠点をおいたのが由来。南北朝期には、義俊は新田一族として義貞の下で活動していたと推定されている。戦国大名としては、15世紀に義実が安房を平定したのが始まりとなる。
結城氏:北朝(白河結城氏は一時期南朝)
藤原秀郷流。小山政光の三男・朝光が源頼朝から下総国結城を与えられた事に由来する。奥州遠征の功で陸奥白河にも所領を賜った。
本家は南北朝期に足利尊氏に味方し、朝祐・直朝の戦死で一時衰退。しかし直光・基光が功績によりそれぞれ安房・下野の守護に任じられた。15世紀には氏朝が鎌倉公方に味方し結城合戦で将軍・義教と敵対。敗北し一旦断絶するが、氏朝の子・成朝が再興し政朝が勢力を回復する。一時、勢いは下総西部・下野南部・常陸西部に及んだ。秀吉に所領を安堵され、徳川家康の子・秀康を養子とする。だが、秀康の子孫が松平氏を名乗ったため断絶した。
分家の白河結城氏は北条得宗家と関係を深めたが、南北朝期には結城宗広・親光が南朝について戦う。親光は後醍醐天皇から寵愛され、楠木正成・名和長年・千種忠顕と共に「三木一草」と称された。親朝も当初は南朝方であったが、後に足利方に寝返る。後、伊達氏の配下として存続。
※太田氏:北朝
名将として名高い太田道灌を輩出。源頼政の末裔で、資国の時代に丹波国桑田郡太田荘に住み太田氏を称した。丹波国上杉荘を領有する上杉氏に仕え、建長四年(1252)に上杉重房と共に鎌倉へ下る。将軍となる宗尊親王に供をするためであった。南北朝期にも、上杉氏に従い足利方として活動したであろう。戦国初期には扇谷上杉氏に仕え、資清・資長(道灌)の際に最も勢いが盛んであった。道灌は江戸・岩槻・河越に築城し主家の勢力伸長に尽力するが、主君に疑われ暗殺される。道灌の子たちの世代になると、資康を祖とする江戸太田氏と資家を祖とする岩槻太田氏に分裂。やがて関東に覇を唱える後北条氏に圧倒されるが、岩槻太田氏の資正は北条氏に長らく抵抗した事で知られる。
徳川期になると、江戸太田氏出身の勝が徳川家康の側室となった。その縁で、勝の甥・資宗が大名に取り立てられ、資俊の代に掛川藩5万石となり存続。
甲信越
武田氏:北朝
源義光の子・義清が祖。一説には常陸国吉田郡武田郷に住み後に甲斐国に配流され土着したのが由来とされる。あるいは甲斐国巨摩郡武田荘に住んだためという。信義が頼朝の下で功をあげ甲斐守護に任じられた。ただし、その勢いを警戒され一族を殺害されている。後、しばらくは弱体化していたが南北朝期に信武が尊氏について活躍。甲斐に加え若狭・安芸の守護となった。応永二十三年(1415)に上杉禅秀の乱で信満が禅秀について敗北し、一時的に衰退する。以降、甲斐国内で一族や有力豪族との対立に苦しめられるが、戦国期に信虎が国内を統一。その子・晴信(信玄)の時代に躍進した。勝頼の代になり、信長に敗北し滅亡。
※真田氏:不明(南朝?)
武田信玄に仕え、やがては真田信繁(幸村)を出した家系。滋野一族の海野氏を祖とするとされる。海野氏は源平争乱で木曽義仲に味方し、後に鎌倉幕府に服属。滋野氏は諏訪の神党に参加しており、南北朝期には諏訪氏と共に南朝方であった可能性がある。史料上の初見は応永七年(1400)。守護・小笠原氏に豪族たちが反抗した(大塔合戦)際に豪族方として参戦している。すなわち、禰津氏指揮下の人々の中に「実田(さなだ)」とあるのがそれだという。また、『信陽雑誌』によれば結城合戦に真田一族と思しき人々が村上頼清と共に出陣した記録があるという。
小笠原氏:北朝
甲斐源氏である加賀美遠光の子・長清を祖とする。甲斐小笠原が由来の地。源平争乱で功を挙げ、信濃の伴野荘地頭職を賜った。承久の乱でも活躍し、阿波守護となる。長清の孫・長房の系統が三好氏を輩出。鎌倉期には騎芸乗馬礼法の家として重んじられた。南北朝期には貞宗が足利尊氏につき、信濃守護に任じられた。旧北条領を基盤に信濃支配に乗りだすが思うに任せず、長時の代で武田信玄に敗れ追われた。後、子孫は信長・家康に仕え大名に取り立てられる。
諏訪氏:南朝
古代から続く豪族・禰官。鎌倉期には北条得宗家に仕えた。建武政権期にも北条時行に味方し反乱する。足利政権成立後、南朝に味方し足利氏に抵抗。尊氏・直義の対立時には直義に与した。南北朝合一後も諏訪氏の勢いは存続。武田信玄によって一旦滅ぼされるが、武田氏滅亡後に頼忠が所領回復。徳川政権の下で大名として存続する。
村上氏:北朝
以下は『戦国大名研究』による。源頼信の子・顕清が祖であると称す。鎌倉末期、護良親王に従って戦い討死した村上義光を輩出。建武政権では信貞が信濃に入り、北条時行と戦う。南北朝動乱の下では、北条時行との戦いを通じ、足利方として行動するようになる。村上義清は二度にわたり武田信玄を退けたが、最終的に敗北し越後の長尾氏を頼った。
上杉氏:北朝
勧修寺流藤原氏。重房が丹波国何鹿郡上杉荘を領有した事に由来する。重房は宗尊親王が将軍として鎌倉に向かった際、同行。足利氏と姻戚関係となる。足利尊氏・直義の母は上杉氏の出であり、南北朝動乱では足利政権に重用される。朝定は尊氏の側近として丹後守護となり、憲顕は伊豆・上野・越後の守護として東国で活躍。尊氏・直義の間で内紛が起こった際には憲顕は直義側として活動、やがて鎌倉公方・足利基氏に赦免され関東管領となる。以降、上杉家が代々関東管領として鎌倉公方を補佐した。いくつかの分家があったが、山内上杉家以外はほぼ戦国期までに滅亡。山内上杉家も長尾景虎に家督を譲る。
長尾氏:北朝
平良兼の子孫で、鎌倉権五郎景正を祖とするという。相模国鎌倉郡長尾郷が由来の地。景正の子・景村が長尾を名乗った。三浦泰村の乱で三浦氏に味方し没落するが、その後に上杉氏に従う。長尾景忠が上杉憲顕に仕え、上野・越後の守護代となった。以降、上野・越後などに一族が広がる。戦国期の越後では府中長尾家が主家をしのぐ力をもつようになり、為景が主君を殺害。その子・景虎は山内上杉氏に味方し後北条氏と戦い、やがて上杉氏の名跡を継ぐ。
東海・美濃
今川氏:北朝
足利義氏の孫・国氏を祖とする。三河国今川荘が由来の地。国氏の孫・範国が南北朝期に尊氏の下で活躍、遠江・駿河の守護となった。尊氏・直義が内紛を起こした後には、引付頭人となる。その子・貞世(了俊)も引付頭人や侍所頭人を務め、義満の時代に九州探題として南朝方が勢力を振るう九州を制圧。範国の子・範氏の子孫が駿河守護を歴任、京の将軍家に仕え鎌倉公方への西の備えとなった。戦国期には氏親が遠江へ進出、さらに義元が三河を領国化する。だが、桶狭間の戦いで義元が討ち取られると衰退。徳川期には高家として存続。
徳川(松平)氏:自称南朝
『徳川家譜』によれば、新田一族の義季が「徳川四郎」と称した。そして南北朝期には世良田政義が新田義貞に味方して敗北。さらに徳川有親は永享の乱で鎌倉公方について敗れ、時宗僧に身をやつして子の親氏と共に三河へ流れたと伝える。そして親氏が松平氏の祖となったという。だが、この家伝は信憑性に乏しい。南朝末期について述べた『浪合記』は、15世紀の松平泰親を「富貴の者」としか述べていない。もっとも、『浪合記』も偽書説があり無条件に信じることはできないが。
歴史上に確認できるのは信光の代からであり、その頃に岡崎平野へと進出。清康は三河統一直前まで勢力を伸ばすが、暗殺され一旦没落した。子の広忠は今川氏の保護下に入る。今川氏が没落すると元康が独立し、織田氏と同盟して三河を統一。徳川家康と名を改めた。その後も今川氏・武田氏と対抗、遠江を手に入れる。本能寺の変後、武田氏の旧領を吸収。しばらく秀吉に対抗するが、やがて服属。豊臣政権では五大老の筆頭を勤めた。秀吉死後、最有力者となり関ヶ原の戦いを経て徳川政権を樹立する。
織田氏:不明(北朝?)
当初、越前国丹生郡織田荘の住人だった。斯波氏に仕える。応永年間に斯波義重が尾張守護となると織田常松はそれに従い守護代となった。それが最初の明らかな記録である。やがて尾張に定着した織田氏は一族内部で争うようになった。その中から清洲織田氏の家老・織田信秀が台頭。そしてその子・信長が飛躍し、時代は天下一統へと進む。
斎藤氏:北朝
鎮守府将軍・藤原利仁の末裔。利仁の子・叙用が斎宮頭に任じられた事から斎藤を名乗る。北陸一帯に一族が栄えた。親頼が美濃目代となったのが美濃斎藤氏のはじめ。南北朝期に土岐氏の下で守護代を勤め、応仁期には美濃を実質支配するに至る。だが、やがて混乱に陥り長井規秀に家を乗っ取られた。この規秀が、いわゆる斎藤道三である。道三は美濃一国を支配するが子の義龍に殺され、龍興の代に信長に征服された。
越前・近江
朝倉氏:北朝
本姓は日下部氏。開化天皇の子・丹波彦坐命を祖神とする但馬国造系と思われる。『日本書紀』孝徳紀に但馬国朝来郡・養父郡郡司の朝倉君が記載されており、それが初出か。元弘三年(1333)、足利尊氏(当時、まだ「高氏」の名)が丹波で挙兵した際に朝倉広景が加わる。以降は斯波高経に属し、建武四年(1337)に高経と共に越前へ赴いた。越前では黒丸城に篭って新田義貞と戦っている。その後も北朝方として活動し、高景は文和四年(1356)に東寺南大門での戦いで功績を挙げた。この際、尊氏は彼の母衣に「弾正左衛門高景」と記しこれを賞している。後、斯波義将の下で越前守護代に任じられた。
応仁の乱においては、孝景が斯波氏の内紛を泳ぎ抜いて越前全土を掌握。以降、戦国大名化した。義景の代に織田信長と対立して敗れ、滅亡する。
浅井氏:不明
近江国浅井郡の豪族。古くから京極氏の被官であったのは間違いないようだ。ただし明らかな活動の記録が登場するのは応仁の乱の頃から。16世紀前半に浅見氏など有力豪族と連合し、亮政の代に第一人者となり主君を追放。北近江を勢力圏とし、長政の代に再生期を迎えた。一時は織田信長と同盟関係にあったが、やがて朝倉氏と結んで信長と敵対。最終的に滅ぼされる。
六角氏:北朝
宇多源氏の流れを汲む佐々木氏一族。鎌倉期に泰綱が京都六角堂付近に館を構えた事に由来する。南北朝期、氏頼は足利方につき近江守護に任じられた。同族の京極市とは対抗関係にあり、佐々木氏惣領の地位と近江守護職を争うが、最終的に六角氏が継承する。応仁の乱以降、将軍義尚・義稙から追討を受けたが、それを乗り切って近江南部の戦国大名化。定頼は将軍義晴を擁立して中央政界に発言権を確保、領国支配を固めるなど最盛期を築いた。義賢の時代に浅井氏との争いで押され、家中の騒動によって衰退。上洛する信長に敗れ領国を失う。
畿内
本願寺:なし
浄土真宗を開いた親鸞が没した後、末娘・覚信尼の庵がある吉水の北に墓所。大谷御廟の起こりである。元亨元年(1321)には「本願寺」の名が見える。元弘三年(1333)、護良親王が祈願所に指定。しかし建武三年(1336)には焼失した。代々、親鸞の末裔が本願寺を守ってきた。戦国期に入ると、蓮如の代で教団が拡大。拠点を山科、越前と移転しながら勢力を拡大した。加賀では一向宗(浄土真宗)門徒が蜂起した事で守護富樫氏が滅ぼされ、百年にわたる一向宗支配がなされる。顕如が信長に敵対し、大阪の本願寺を拠点に長きにわたり抵抗。信長を大いに苦しめた。最終的には大阪を明け渡し、徳川期に入ると本願寺は東西に分裂する。なお、親鸞は下級貴族日野有範の子と言われる。
※2016/10/22 事実誤認があり大幅に修正。
筒井氏:北朝
出自は不詳。大和国筒井荘を拠点とする豪族で、興福寺の僧兵でもあった。鎌倉期・足利期を通じて大和国には武家でなく興福寺が守護の任にあたった。南北朝期には、興福寺は大乗院門跡と一乗院門跡の内紛はあったが、興福寺は一貫して北朝方であった。ただし大和の地方豪族は利害等のよって南朝・北朝に分裂。筒井氏は北朝方であったのもあり義満によって取り立てられた。南北朝合一後は守護代に相当する「官符衆徒棟梁」に任命されている。しかし大和南部に勢力を張る越智氏の抵抗を受け、大和北部に勢威は限局された。この時期、興福寺の支配権は弱まり、実権が彼らのような土着した有力僧兵たちに移りつつあったのである。
応仁の乱では東軍につくが、越智氏と結んだ古市氏に押され官符衆徒棟梁の地位を奪われた。16世紀前半、順昭が勢力を回復させ越智氏を抑えて大和一国をほぼ支配する。子の順慶は当初、松永久秀に圧倒される。だが久秀が織田信長に背き滅ぼされた後、信長の庇護によって天正四年(1576)に大和一国支配を認められた。二年後に大和平定を完了させ、郡山を拠点とする。本能寺の変後には明智光秀から誘われるも動かず、後に秀吉に参じた。順慶没後は伊賀上野に移され慶長十三年(1608)に家中の内紛を理由に取り潰される。
以下、後半に続きます。
【参考文献】
後半を参照。
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後半を参照。
※2015/10/23 宇喜多氏に関し大幅に加筆した関係で、中国地方を後半に移しました。