主要戦国大名家の祖先たち in 南北朝(後半)
|
中国地方
浦上氏:北朝
本姓は紀氏。播磨国揖西郡浦上荘が名の由来。赤松氏の被官となる。貞治六年(1367)には赤松則祐の下で浦上行景が備前守護代に任じられた。赤松氏は嘉吉の乱で一旦没落を経験した後に経て再興されるが、以降は浦上氏が家中を支える。赤松政則の時代、浦上則家は侍所所司代・山城守護代を歴任。永正十七年(1520)、村宗が三石城を拠点に定め、赤松義村を討つ。それによって播磨・備前・美作の支配権を手に入れたが、子の代で宇喜多直家に滅ぼされた。
宇喜多氏:南朝?
備前児島を拠点とし、本姓は三宅氏と伝えられる。南朝の忠臣として知られる児島高徳と同様な出自といえる。事実、『備前軍記』等のように宇喜多氏が児島高徳の末裔であると伝える文献も存在する。高徳の嫡男・高秀の流れを汲んでいるという。ただし、高徳自身が実在に疑問を呈される事もある人物であり、この伝承が事実かどうかは不明である。
もっとも、児島は南朝に好意的な地域であり、高徳の末裔かどうかは別にして宇喜多氏の祖先もあるいは南朝方として活動した可能性は否定できない。しかしながら、宇喜多氏に関して信頼に足る活動記録は応仁・文明年間以降に浦上氏の被官であったとするものである。飛躍したのは宇喜多直家の時代で、主家・浦上氏を討ち、とって変わった。子の秀家が備前・美作・備中の大名として秀吉に安堵され、豊臣政権にも五大老の一人として参加する。関ヶ原の戦いで西軍につき取り潰された。
尼子氏:北朝
宇多源氏の流れを汲む京極氏から分家。京極導誉の孫・高久が近江国甲良郡尼子郷を領有する。持久は明徳の乱直後、京極氏が守護を勤める出雲の守護代に任じられた。以降、出雲守護代を歴任し、経久の代に京極氏をしのぎ戦国大名化。しかし晴久の時代には毛利氏から押されるようになり、義久の代に滅亡。
大内氏:基本的に北朝
百済聖明王の子・琳聖太子が周防に着岸し、大内県の領有を聖徳太子から認められた事に端を発すると伝えられる。製鉄技術を持ち、朝鮮半島から渡来した人々を祖とするものか。12世紀頃から周防の在庁官人として存在感を増す。南北朝期には、弘世が足利氏について活動。尊氏・直義の内紛では直義方として活動し、勢力を広げた。足利義詮の時代に足利政権に帰順し、義弘の時代には瀬戸内に広大な勢力圏を築き足利義満から警戒され討伐される。しかし九州経略のため盛久が重用され、再び中国地方で勢威を振るった。義興の時代には、足利義稙を擁して上洛するなど中央にも存在感を示す。義隆の代に、陶晴賢の謀反で討たれ衰退。毛利氏に滅ぼされた。
毛利氏:北朝(一部は南朝)
大江広元の四男・季光が相模国毛利荘を領したのが始まり。三浦泰村の乱で三浦氏に与して続滅の危機に合うが、経光の系統のみが生き残る。越後佐橋荘・安芸吉田荘を有していた。時親は六波羅探題評定衆の一人で、若き日の楠木正成に兵法を伝授したという伝説がある。鎌倉幕府滅亡後、時親は足利尊氏に臣従。一方、子の貞親や孫の親衡が南朝についたが、後にこれを迎え入れていた。吉田荘に赴いて土着したのは時親の時代である。その後は吉田盆地を中心に勢力を広げ、戦国期には大内氏・尼子氏と大勢力の狭間で苦労を強いられる。元就の時代に自立・飛躍し中国地方を制覇した。
なお、越後に土着した一族もおり、上杉謙信の重臣・北条高広はその末裔である。
※小早川氏:北朝(一部は南朝)
小早川隆景の活躍により、吉川と共に「毛利両川」として知られた。元来は坂東八平氏の末裔。土肥実平の子・遠平が相模国早河荘内土肥に土着、「小早川」と称する。彼は安芸国沼田荘を賜り、また平賀義信の子を養子として景平と名乗らせ後継とした。承久の乱での功により、茂平が安芸国都宇荘・行原荘を与えられている。南北朝期には、惣領家は北朝側であったが庶家には南朝につくものも少なからず存在。則平が将軍の使いとして九州豪族たちの調停を行うなど中央から重用された者もいた。
その後、安芸国の在地豪族として活動。戦国期には毛利元就の子・隆景が養子として入り、以降は毛利一族となる。豊臣秀吉の甥・秀秋が後継者となり、関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返って大功を立てるが間もなく病没。家名は断絶した。
※吉川氏:北朝および南朝
吉川元春の活躍により、小早川と共に「毛利両川」として知られた。元来は藤原南家由来。経美が駿河国入江荘吉河邑を領したのが始まりである。友兼が梶原景時一族を討った功で播磨国福井荘を賜り、経光が承久の乱で安芸国大朝荘を与えられた。経高の時代に大朝荘に土着。その後、現地豪族として活動、南北朝期には一族が分裂し南朝・北朝それぞれについて戦った。経貞の代で再統一され、戦国期には大内氏に属する。毛利元就の養子・元春が養子に入り毛利一族に。徳川期には岩国を領し、明治元年(1868)に大名として遇される。
四国地方
三好氏:南朝
甲斐源氏である小笠原氏の末裔。小笠原長清が承久の乱で功績を挙げ、阿波守護に任じられた。以降、阿波守護は長清の孫・長房の系統に引き継がれる。南北朝期には、阿波守護となった細川氏に対抗して南朝方として活動。しかし細川頼之に降伏、以降は細川氏の被官となった。小笠原義長の時代に阿波国三好郷にちなみ三好氏を名乗ったとも言う。
戦国期、細川氏の内紛に深く関与する。三好之長は細川澄元を擁立して畿内に入り、細川高国に討たれた。元長も細川晴元を奉じて上洛するが最終的に敗北。その後、長慶が畿内を一時支配するが覇権は長くは続かなかった。
長宗我部氏:北朝
本姓は秦氏とされる。鎌倉初期に、秦能俊が信濃から土佐国長岡郡宗部郷に移住。やがて地名を取り「長宗我部」を名乗り、岡豊城を本拠とした。南北朝期には信能が足利方について活躍、兼能時代から吸口庵の寺奉行を代々受け継ぐ。その後、一族の内紛や周辺豪族からの攻撃に悩まされるが、国親が16世紀前半に家を再興。その子・元親が土佐、続いて四国を平定するも豊臣秀吉に降伏。土佐一国を安堵された。盛親が関ヶ原の戦いで西軍について敗北、取り潰された。
九州地方
大友氏:北朝
藤原秀郷流の能成の子・能直を祖とする。その庶子たちが、豊後を中心に土着した。能直は母方一族の所領・相模国大友荘にちなみ大友氏を名乗ったとされる。惣領家が豊後に定着したのは、三代目・親泰が元寇に備えて下向したのが始まりのようだ。南北朝期、貞宗は尊氏につき、豊後に加え肥後・筑後の守護職も手に入れた。一方、貞順のように南朝についた者も少数ながら存在する。戦国期には九州を三分する勢いを示し、義鎮(宗麟)の代には最大版図を誇った。しかし、耳川の戦いで島津氏に大敗したのを契機に衰退。義統は豊臣秀吉から豊後を安堵されたが、朝鮮出兵で失態し取り潰された。
※立花氏:北朝
勇将・立花宗茂を輩出した事で知られる。祖は大友貞宗の子・貞載。筑前国の立花城を拠点とした事に由来する。貞載は父の名代として在京し、新田義貞による足利尊氏討伐に付き従う。しかし箱根・竹ノ下の戦いで足利方に寝返り、尊氏の勝利に貢献した。入京後、貞載はこれを恨んだ結城親光によって殺害される。立花の家督は弟の宗匡が継ぐ。戦国期には、鑑載が毛利氏に内通し大友義鎮に討たれた。その後、立花城は大友一族の戸次鑑連が守り、高橋鎮種の子を養子とした。これが立花宗茂である。ちなみに高橋鎮種も出自は大友一族であった。
豊臣秀吉の九州遠征に際して秀吉に重んじられ、先鋒を任される。後、柳川13万石を与えられた、関ヶ原の戦いでは西軍について一旦取り潰されるが、徳川秀忠に見出され大名として復帰。後に柳川10万9000石に戻っている。子孫は柳川藩として存続した。
竜造寺氏:北朝
藤原秀郷の子孫・佐藤季清が12世紀半ばに肥前佐嘉郡小津郷龍造寺に居住したのが始まり。その養子・季綱(『戦国大名研究』によれば同じく藤原一族の高城氏出身)が肥前龍造寺村の地頭職を賜り龍造寺氏を称する。その後、子孫は筑前国早良郡北伊郷や筑後国三潴郡荒木村の地頭職も得ている。南北朝期には足利尊氏に味方した。後、少弐氏の被官となる。戦国期には支流の水ケ江龍造寺氏が台頭、そこから龍造寺隆信が出て少弐氏を凌ぐ。隆信は大友・島津と並ぶ九州の大勢力となったが、島津氏との戦いで戦死。以降は、鍋島氏に家中の実権を握られ17世紀初頭に断絶する。
※鍋島氏:不明
龍造寺氏衰退後、実権を握った鍋島直茂の家系。藤原秀郷流である少弐氏から分家したとも言われるが詳細は不明。『戦国大名研究』によれば宇多源氏・佐々木氏一族の経秀が14世紀末に肥前に土着したのが元だという説もある。いずれにせよ、南北朝期における明らかな事跡はないようだ。
龍造寺氏の家臣として16世紀半ばに台頭。鍋島直茂は龍造寺隆信の下で戦功を挙げる。隆信の死後は、家中の実権を握り豊臣秀吉からも重用された。子の勝茂の代に龍造寺氏が断絶し、名実ともに佐賀藩主となる。
島津氏:北朝
惟宗忠久が近衛家の下司として摂関家領・島津荘に下向したのが始まり。忠久は源頼朝から信任され、薩摩・大隅・日向の守護任じられた。しかし比企氏の乱でこれらの守護職は没収され、後に薩摩守護のみとなる。九州に赴いたのは三代目・久経以降。南北朝期には貞久が足利方として活動、大隅・日向も含めた三国の守護に還任された。以降、南九州の有力者として君臨。戦国期、当初は一族ないで争っていたが、貴久の時代に領国を整備し戦国大名化。子の義久・義弘らが九州に覇を唱えつつあったが、豊臣秀吉の前に降伏した。関ヶ原の戦いでは西軍についたが、本領を安堵される。以降、薩摩藩72万石として存続、幕末には倒幕運動の原動力となった。
伊東氏:北朝
藤原南家・乙麻呂から数えて八世の孫・為憲が駿河・伊豆国司として下向し、その子孫が工藤氏である。その中で、為憲の曾孫・維職が伊東氏を名乗った。伊豆国伊東荘に由来する。源頼朝が挙兵した際、伊東祐親は平家について活動。頼朝の勢力が拡大すると祐親は自害したが、一族は赦免された。南北朝期には、祐持が当初は北条時行に味方するが後に足利方に転じる。各所に一族が土着したが、中でも栄えたのが日向の一族であった。日向国飫肥藩主として徳川期も存続。また、祐親の子孫には備中国岡田藩主に発展した家もある。
宗氏:北朝
平知盛や安徳天皇の末裔という伝承もあるが、後世の創作とされる。現在では、対馬の在庁官人・惟宗氏が祖という説が有力。鎌倉期に守護であった少弐氏の地頭代として権勢を振るうようになった。「宗」と名乗ったのが確認されるのは資国(文永の役で戦死)が最古。南北朝期には少弐氏の被官として九州で転戦、筑前等に所領を与えられた。永和四年(1378)頃、澄茂の代に対馬守護となる。以降も15世紀後半までは少弐氏の家臣としても活動した。貞茂・貞盛らが朝鮮半島との関係を深めようと尽力し、16世紀までには朝鮮貿易を独占。豊臣秀吉の朝鮮出兵後も朝鮮との関係修復に努力し貿易を担った。
織田・豊臣・徳川政権で台頭した大名
急速な勢力拡大に伴い、実力本位の人材登用が織田・豊臣氏ではなされた。信長・秀吉の下で大大名へと成長し、ついには天下を掌握した徳川氏も出自は不明である。そのため、彼らの下で取り立てられた大名には先祖の事跡が不明な者も多い。しかしながら、彼らの中にも相応に歴史をたどれる家系がないわけではなかった。
蒲生氏:北朝
近江国蒲生郡の住人。藤原秀郷の子孫とも蒲生稲置の系統とも言われる。『戦国大名研究』によれば、秀朝が足利尊氏に従い功績をあげたという。その後は六角氏に仕えたが、織田信長が上洛すると蒲生賢秀はこれに降伏し子の氏郷を人質とした。氏郷は信長・秀吉に従い会津の大名となるが、子孫が相次いで夭折し家系は断絶した。
山内氏:北朝
藤原秀郷の末裔・首藤資清が源頼義に使え、更に曾孫の俊通が相模国鎌倉郡山内荘を領有した事に由来するという。経俊は当初は平氏側として源頼朝を石橋山の戦いで射たが、母が頼朝の乳母であった関係から赦免されている。『戦国大名研究』によれば、山内首藤氏はその後二つの系統に分かれ南北朝動乱ではいずれも足利方につくが、観応の擾乱で尊氏方についた一族が山内首藤氏を一本化、その後は備後の有力領主となり戦国を経て毛利氏に仕えたという。さて戦国末期、信長・秀吉に仕えた山内一豊という武将が関ヶ原では家康について土佐に封じられる。この土佐山内氏は山内首藤氏の末裔と称しているが、真偽は不明。
高山氏:北朝?南朝?
キリシタン大名として有名な高山右近を出した事で知られる。『戦国大名研究』によれば、摂津国三島郡高山村出身で桓武平氏の一族であるという系図があるという。その系図によれば、高山遠江守なる人物が新田十六騎の一人であった一方で越前守範重なる人物が武蔵野の戦いで足利軍に属して活躍したとされている。
池田氏:不明(伝説では楠木氏の末裔?)
美濃国池田郡池田荘から興ったと考えられており、源頼光の四代孫・泰政の代に池田を称したという。泰政から九代の孫・教依の妻は当初楠木正行に嫁ぎ、正行戦死後に再婚したと伝えられる。そのため、その子・教正は正行の胤であるという伝説が伝えられるという。教正から五代の孫・恒利の妻が織田信長の乳母となり、その子・恒興も信長に仕えた。恒興の子・輝政は秀吉・家康に仕え姫路藩主となる。子孫から岡山藩主・鳥取藩主を輩出。
黒田氏:北朝?
宇多源氏・佐々木氏の一族。鎌倉末期に京極満信の次男・宗満が近江国伊香郡黒田邑を領し黒田氏を名乗る。『戦国大名研究』によれば、京極一族として足利政権から重んじられ奉公衆・評定衆に任用されたという。南北朝期も、京極氏と共に足利方として活動したものであろうか?高政の時、将軍足利義稙の怒りにふれ備前国邑久郡福岡に移住したと伝えられる。その後、一時断絶したという説も。重隆の時代に姫路へ移住。職隆は赤松一族・小寺政職に仕え、小寺姓を与えられた。孝高(官兵衛、如水)は織田信長に通じて羽柴秀吉に仕え、黒田姓に戻す。その後も秀吉の家臣として活躍し豊前六郡を与えられた。子の長政が関ヶ原の戦いで活躍して筑前一国を与えられ、福岡藩47万3000石として存続。
井伊氏:南朝
遠江国引佐郡井伊谷に居住した事に由来し井伊氏を名乗った。『戦国大名研究』によれば藤原氏の末裔と称しているという。南北朝期には南朝につき、宗良親王を保護した。その後、今川氏に仕えたが、直政が徳川家康に取り立てられ「徳川四天王」の一角となる。徳川時代には彦根藩35万石を領有し譜代筆頭となった。
本多氏:北朝
藤原兼通の子孫と称する。助秀が豊後国本多に住んだ事に由来するという。南北朝期、助定が足利尊氏に従い尾張国に所領を賜った。その後、幾つかの系譜に別れたという。定通の子孫は三河国の松平泰親に仕え、「徳川四天王」の一人・本多忠勝を輩出。定正の子孫からは家康の謀臣として知られる正信・正純を出した。徳川期には大名・旗本50余家に分かれ栄える。
榊原氏:南北朝後に分家
伊勢国一志郡榊原村に住んだ事に由来する。伊勢国守護・仁木義長の末裔だと称する。義長は足利一門で足利尊氏の下で軍功を上げ勇将として知られた。のち清長の時代に三河に移住し松平清康に仕えたといわれる。「徳川四天王」の一人・榊原康政を輩出。子孫は各地を転々とした後、最終的に越後国高田15万石。
また、戦国期に没落した名門で織田・豊臣・徳川政権の下で再興した家もある。
京極氏:北朝
宇多源氏・佐々木氏一族。鎌倉期に氏信が京の京極高辻に屋敷を構えたのに由来する。鎌倉期には六波羅探題に仕えた。南北朝期には高氏(導誉)が足利尊氏の側近として活躍。彼は政所執事・評定衆・引付頭人を歴任し、更に近江・若狭・上総・出雲・飛騨の守護を兼ねる。導誉の子・高秀も侍所所司・評定衆となった。更にその子・高詮の代には侍所所司を務める「四職」として家格を確立、出雲・隠岐・石見の守護職を継ぐ。六角氏と佐々木氏惣領の地位や近江守護職を巡って争うが、これは果たせなかった。戦国期には一旦没落したが、高次が織田信長に仕え5000石を与えられた事から再び家運が上昇。高次は本能寺の変に際し明智光秀を支持したが、妹が豊臣秀吉の側室となったため赦免される。また淀殿の妹を娶り、大津6万石に加増された。更に関ヶ原の戦いでは東軍について大津城で籠城。その功によって小浜9万2000石の領主となる。
細川氏:北朝
足利一族であり、義康の曾孫・義季が三河国額田郡細川郷を領した事に始まる。南北朝期には、和氏・頼春・師氏や顕氏・定禅らが足利尊氏の下で軍功を重ねた。頼春の子・頼之は足利義満の補佐役として足利政権の確立に貢献。以降、嫡流は摂津・丹波・讃岐・土佐の守護を歴任し、しばしば管領(将軍の補佐役)も輩出した。分家も和泉(半国ずつ)・阿波・淡路・備中の守護となっている。応仁の乱後も政元の下で幕府政治を壟断したが、政元死後は家中が分裂し内乱に陥って衰退。その中から三好氏の台頭を招き没落する。
しかし、分家である和泉半国守護・元常の甥である藤孝が足利義昭の近臣となる。『戦国大名研究』によれば頼之の弟・頼有の系統だという。藤孝はその縁で織田信長・豊臣秀吉に仕え丹後田辺を与えられた。その子・忠興は関ヶ原の戦いで東軍につき、豊前小倉を賜る。寛永九年(1632)、忠興の子・忠利が熊本54万石を与えられ明治まで存続した。
「下克上」は戦国期に一度に行われたものではなく、武士の台頭以来、源平合戦・南北朝動乱と何度かの契機を経て徐々に進行したものである事がわかります。無論、最大級の「下克上」を促したのが戦国末期に織田・豊臣・徳川の天下統一事業であったのは論を待たないのでしょうけど。また、「下克上」には単純に家臣が主君を越えるだけでなく、分家が本家を凌ぐ形を取るケースも多いようですね。ここに挙げた大名たちの経歴からは、地方豪族たちがいかにして成立し、いかにして生き延びようとしたかが伺えて興味深いと思います。
【参考文献】
『国史大辞典』吉川弘文館
『戦国史事典』秋田書店
『日本歴史大辞典』河出書房
『日本大百科全書』小学館
佐藤進一『南北朝の動乱』中公文庫
『岡山市史第2』岡山市
呉座勇一『応仁の乱』中公新書
「浪合記」(http://homepage1.nifty.com/sira/n_index.html)
「戦国大名研究」(http://www2.harimaya.com/tankyu/index.html)
関連記事:
「戦国合戦の真実 ~荻生徂徠レポート~ 戦国の実戦経験者の証言を元に」
「南北朝研究史概論」
「軍事史概説 第4部 日本前近代軍事史(1/2) 陸軍編」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
南北朝関連については、「南北朝関連発表まとめ」を御参照ください。
※2013/8/26 関連記事のリンクが不備だったので訂正しました。
※2015/10/23 宇喜多氏に関して大幅に加筆した関連で、中国地方をこちらに移しました。参考文献を加筆しました。
※2016/10/22、2017/3/14 前半の手直しに応じ参考文献を加筆しました。