近代における楠木正成への信仰の一例~正成の画像を持っていれば弾に当たらない~
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正成は戦場で名を挙げた英雄でしたから、軍神としての信仰がまずありました。以前の記事でも言及しましたが、藤田精一『楠氏研究』は、「従軍戦士の珍武装」という題名の小文で以下のように述べています。
日露戦争の真最中予後備軍人も続々招集せられ何れ劣らぬ義勇の振舞は感ぜぬものも無かりけり、この時或る地方に於ては誰云ふとなく楠公画像の肌の守りは霊験貴き荒火矢除けなりと謂ひ伝へければ、恩愛の情深き母や妻は手を砕きて楠公小画像を画師に求め心を籠めて襯衣腹巻に縫ひ込めば奇しき武装の勇士の面々雄々しく戦場に馳せ向ひぬ戦報は逸早く新聞号外によりて某兵団の勇戦を伝へぬ不思議やかの地方出の戦士が死傷の公報甚だ少く而かも皆目覚しき戦功を樹てたる由なれば郷党の父老鎮守の宮に詣でて楠公の霊を遥拝するものもあり戦済みて統率の某隊長兵を閲するまにまに一陣の夕風其の戦袍を打ち靡かして裏絹深く名工の楠公画像を吹き返せばさてこそあれと歓呼の声四方に起ちぬ是より楠公隊長の渾名上下に伝はり楠公兵団の声は全軍に響き渡りしとなん(藤田精一『楠氏研究』廣島積善館 626頁)
出征する我が子・我が夫が無事帰ってきて欲しい、そしてできたら手柄を立ててほしい。そう思うのは人情の自然というものであり、正成が神とされた時代にそうした祈願を捧げるのはよくわかります。しかし、どうやらそれ以外にも正成が利益があるとされた事例がある可能性があるようで。
シーボルトは『江戸旅行日誌』で文政九年五月十二日の条において正成について言及。彼はこの時、兵庫すなわち正成戦死の地を訪れており、現地の正成信仰を目の当たりにしたようです。正成は歯痛の神として崇められており多くの患者が参拝、さらには海の神とも信じられており無事を祈る船員が髷を奉納し祈願するとのこと。ただし、シーボルトの記録以外にそうした話は残されていないようで、真偽は不明だと藤田精一氏は注釈しています。とはいえ、民間でそうした事があっても不思議はないようには思います。もっとも、正成が歯や海の神とされた理由はよくわかりませんが。
勤王家が理想とする忠義の臣として、そして近代以降は国民教育の一環として行われた正成の神格化。しかし、庶民は庶民の都合で正成を神として崇める付き合い方を見出していたようです。
閑話休題、第二次大戦中には食糧不足の中で腹を満たすべく様々な工夫がなされたそうですがその一つに「楠公飯」なるものがあったそうです。正成が発案したと言う触れ込みで、玄米を炒った上で二倍の水に一晩つけてから炊くと一升の米でも三升釜を一杯に出来たとか。もっとも、苦くて食べられたものではなかったという事ですが。正成のイメージは、どうも便利に使われていた感がありますよね。
【参考文献】
楠氏研究 藤田精一 廣島積善館
誰も「戦後」を覚えていない 鴨下信一 文春新書
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「「遠祖は正成」―庶民から見た楠木氏―」
「「民族英雄考―楠木正成と諸国の英雄たち―」補足:正成とフランスの英雄たち」
「<過去記事紹介>虫歯って、嫌ですね…」
正成ではないですが、楠木一党で歯の神様とされた人ならいます。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
楠木氏関連をはじめ、南北朝についての関連発表は
「南北朝関連発表まとめ」
にまとめてあります。