続「『超高速!参勤交代』はどれだけ無茶か」~史実の参勤交代における「強行軍」と比べる~
|
関連記事:
「『超高速!参勤交代』はどれだけ無茶か、行軍速度から考える~主に南北朝主要武将の事例から~」
ありがたいことに、この記事は良い評判をいただき、『ガジェット通信』の寄稿記事にもしていただけました皆様方にはこの場を借りてお礼を申し上げます。
関連サイト:
「ガジェット通信」(http://getnews.jp/)より
「『超高速!参勤交代』はどれだけ無茶か、行軍速度から考える~主に南北朝主要武将の事例から~(とらっしゅのーと)」
(http://getnews.jp/archives/617277)
さてコメントでも指摘をいただきましたが、実際のところ、平和な時代にインフラが整えられた街道をゆく参勤交代と、敵の妨害や物資調達やらに苦しむ乱世の行軍を同じに扱うのは問題があるかもしれません。とはいえ、映画においては敵中を行くに準じてよさそうという判断や僕の個人的趣味によってあえて進軍速度と比較させてもらったわけですが。
では、実際の参勤交代においてどの程度の速度なら強行軍になるのか。それに関する話があるので今回は補足としてご紹介させていただきます。
十七世紀の大名に池田光政という人物がいました。彼は岡山藩藩主で、当時を代表する名君の一人です。当時は、戦国の遺風が残る一方で太平の世らしい雰囲気が広まり始める過渡期の時代に当たります。そんな時代に生きただけに、光政は閑谷学校を建設したり自らも参勤交代中に漢籍を駕籠の中で読んだりするなど学問を好む一方、質実で戦場を常に想定し暮らしていた人物でもありました。その一例として、自らの参勤交代も軍事演習といった意味合いを持たせたようです。だから、光政の大名行列は時に強行軍となりました。郷土史家・荒木祐臣氏の『備前藩殿様の生活』によれば、1日で十一里(44㎞)を六百人の行列に進ませたこともあったとか。
これは家臣たちにとってはきつかったようで、脱落するものも出たという事です。これを目の当たりにした光政は、日記に
いまの若い者たちは、昔の六十の者よりも弱い。ぜいたくをして、体がなまり、厚着をして、老人のように、すぐに馬に乗りたがる
(磯田道史『殿様の通信簿』新潮文庫 80頁)
といった内容を書いて慨嘆したとか。太平の世における大名行列が列を崩壊させない範囲で可能な「強行軍」の限界は、このあたりと見てよいでしょう。
前回にも触れたように、行軍速度の短期的な限界は1日50-70㎞程度。それと比較すれば若干及ばないようです。インフラが整った街道を泰平の世に進むことを考えれば、単純に考えると難易度は下がってそうにも思えるのですが、おそらくは、参勤交代には参勤交代ならではの、乱世の行軍にはない難題があるという事でしょう。
以上を考えると、『超高速!参勤交代』の湯長谷藩に要求される1日55㎞~75㎞程度という速さは、一般的な大名行列に可能な限界を超えているようです。乱世の行軍だけでなく、史実における参勤交代の事例から考えても、やはり無茶な「超高速」という事だったと言ってよさそうです。
【参考文献】
磯田道史『殿様の通信簿』新潮文庫
『大辞泉』 小学館
関連記事:
「『超高速!参勤交代』はどれだけ無茶か、行軍速度から考える~主に南北朝主要武将の事例から~」
「どれほど兵は神速を尊ぶか? ~歴史的に行軍速度を探求し戦争術評価の尺度とする試み~」
インフラが整った自国の街道をフルに活用した行軍には、1日約100㎞を達成した事例もあるそうです。
「サムライ、ハラキリ、ブシドー~切腹を軸に武士の有り様を見る~」
関連サイト:
「『超高速!参勤交代』」(http://www.cho-sankin.jp/)