とある「弟」が兄の死後に見せた知られざる奮闘~北陸で一大勢力を築いた隠れた名将・脇屋義助~
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『世界ナンバー2列伝』
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『世界ナンバー2列伝』では、尊氏の弟・直義が取り上げられています。
ただ、彼らは縁の下の力持ち的な役割故か、無名な事も多々あります。おそらくは彼らの中で一番知名度が高いであろう直義ですら、テレビで「それまで源頼朝像とされてきた肖像画が実は直義のものらしい」という話題で「尊氏の弟」と連呼されるのみで「直義」のタの字すら出てこなかった事があった覚えがありますから。
そうした気の毒な「弟」たちの中に、新田義貞の弟・脇屋義助がいます。義貞も名将と呼ばれるに足る武人でありながら尊氏・正成・顕家といった同時代の怪物たちと比較されて大概不遇な人物ですが、義助は扱いが更に地味。酷い場合は、存在自体がスルーされていることも少なくありません。しかしこの義助、実はなかなかの傑物。という訳で、今回は彼の知られざる偉業に少しだけ触れてみようかと。
建武政権が崩壊した後、北陸で勢力拡大を目指すことになった義貞兄弟。色々な挫折を経て、越後の一族の助けもあって北陸に覇を唱えつつあった義貞が斯波高経との戦いで落命したのが延元三年(1338)。その後、総大将を失い逼塞を余儀なくされた新田軍を支えたのが残された義助。
『太平記』によれば、その後も少なくなった味方をまとめながら奮戦していた彼ですが、翌年に後醍醐天皇の崩御を知りその遺勅を受けて発奮します。後醍醐の喪が明けるのを待ちかねたかのように延元五年(1340)には味方武将がそれぞれの拠点から出撃。畑時能が300余の兵力で12の城を落とし、由良光氏が500の兵で6ヶ所、堀口氏政が500騎で11の城を攻め落としました。義助自身も国府から三千の兵で17の城を数日のうちに陥落させ、敵将高経が籠る黒丸城を包囲するに至ったのです。高経は、敵軍が今や地理を熟知している事やその勇猛さを鑑みて決戦を避け、城を退去して加賀国(石川県南部)に逃れました。ここに、義助は兄の無念を果たす格好で越前(福井県東部)を手中にしたのです。越後の新田一族とも連携すれば、北陸は再び南朝方に傾くことになります。何より、京にほど近い越前が陥落した事で足利政権に少なからぬ衝撃を与えたようです。
本気で攻め寄せた足利軍の前には衆寡敵せず、義助は美濃を経て吉野に逃れる結果となったのですが、それでも戦線崩壊を食い止め一度は一地域に一大勢力を築いて敵の拠点を脅かすまでに巻き返したのですから、脇屋義助は「隠れた名将」と呼んでも良いかもしれません。実績の割に知名度が低いのは気の毒な気がしますので、今回は取り上げてみました。
【参考文献】
『日本古典文学大系太平記』一~三 岩波書店
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