南北朝歴史人物の漢詩を鑑賞する~細川頼之『海南行』と絶海中津『応制賦三山』~
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細川頼之(1329-1392)は南北朝後期の武将で、足利政権第三代・義満が幼少の時代に管領として足利政権を主導し将軍権力の確立に貢献した人物です。しかし有力諸侯の反発を買い、やがて一時失脚するに至ります。失脚した頼之が、出家して領国に帰る際に詠んだのが以下の作品です。それを念頭に置いてご覧ください。なお、○●は平仄を表し○が平、●が仄。◎は押韻の字を表します。平仄や漢詩の大雑把な規則については、以前の記事を御参照いただければ。
海南行 細川頼之
○○●●●○◎
人生五十愧無功 人生五十功無きを愧づ
○●○○●●◎
花木春過夏已中 花木春過ぎて夏已に中ば
●●○○●○●
満室蒼蝿掃難尽 満室の蒼蝿掃へども尽し難し
●○○●●○◎
去尋禅榻臥清風 去りて禅榻を尋ね清風に臥す
<現代語訳>
私の人生はもはや五十年になるが、その間に功績の一つもないのは恥ずかしい。
花や木を見る限り、春は過ぎて夏ももはや半ばである。
部屋中に蝿がとびかってうっとおしく、追い払ってもきりがない。
それなら、部屋を去って座禅用の腰掛を探し爽やかな風に当たって横になるとしよう。
この詩は、「芳野三絶」と同様に七言絶句に分類されます。転句(三行目)が二六対になっておらず六字目が拗体になっていませんが、これは「挟平格」に相当するため規則としては問題ありません。これは、以前の記事における梁川星巌の詩と同様ですね。
政敵たちを蝿呼ばわりしてるあたり色々と鬱憤はあったことが察せられる一方で、面倒な政界のしがらみから解き放たれて清々している様子も伝わりますね。また、禅宗への傾倒も読み取れます。禅宗と頼之といえば、頼之が南北朝の武将としては珍しく漢詩をたしなんだのも、禅僧からの影響によるものだとか。当時、禅僧を中心に漢文学が隆盛しようとしていましたからね。彼らの純正漢文能力は仏教内部にとどまらず、外交文書を作成したり儒教知識を保有したりといった面でも発揮されています。
というわけで、次は南北朝期の禅僧による作品をば。
絶海中津(1336-1405)は土佐出身の臨済宗僧です。無窓疎石から学んだ後、明に留学。その後、足利義満から信任され等持寺・相国寺などの住持となり五山文学の中心人物となりました。明では洪武帝(朱元璋)と謁見の栄誉を賜っており、その際に秦の始皇帝時代に日本に渡ったという伝説もある徐福について下問され、以下のような詩を作って答えたそうです。
応制賦三山 制に応じて三山を賦す 絶海中津
○●○○○●◎
熊野峰前徐福祠 熊野峰前 徐福の祠
●○●●●○◎
満山薬草雨余肥 満山の薬草 雨余に肥ゆ
○○●●○○●
只今海上波濤穏 只今海上 波濤穏やかなり
●●●○○●◎
万里好風須早帰 万里の好風 須く早く帰るべし
<現代語訳>
熊野の山の前に徐福の祠はあります。
そこでは山のあちこちに薬草が雨の後という事もあって生い茂っています。
今や、海上の波が穏やかなように天下は(陛下の恩徳あって)泰平なのですから、
徐福よ、万里まで続く良い風を受けて早く故郷へと帰りなさい。
「三山」というのは、熊野における本宮・那智・新宮の総称です。なお、これを受けて洪武帝は同じ韻字を用いてこのように詩を返したとか。
御製賜和 御製和を賜う 明太祖
○●○○●●◎
熊野峰高血食祠 熊野峰は高し 血食の祠
○○●●●○◎
松根琥珀也応肥 松根の琥珀も 也(ま)た応に肥ゆべし
○○○●○○●
当年徐福求仙薬 当年の徐福は 仙薬を求め
●●○○○●◎
直到如今更不帰 直ちに如今に到って更に帰らず
<現代語訳>
熊野の峰は高く、そこでは人々が祠に動物を生贄にして今でも大切にまつっている。
長い年月の末に、当時の松の根も豊かな琥珀へとかわっている事だろう。
当時、徐福は不老長寿の薬を求め、
今に至るまでこちらには帰ってこない。
とっさにこのような詩を返せるあたり、朱元璋の教養も流石と言うしかありません。いずれの詩も、七言絶句となっています。
【参考文献】
小川信『人物叢書 細川頼之』吉川弘文館
加藤徹『漢文の素養』光文社新書
新田大作『漢詩の作り方』明治書院
『新字源』角川書店
『大辞泉』小学館
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「足利義満」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshimitsu.html)