他人の「作品」を批評する際の心構え:「基本的に褒めよ」~美意識は磨きつつ、懐は深く心は広く~
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確かに、色んな物を見ていれば中には不満を感じる作品だってあるでしょう。その際に文句の一つも言いたくなる心情は、よくわかります。ただ、それをそのまま吐き出すのはちょっと待ってほしいのです。良いものを良いと分かる鑑識眼があるのは素晴らしい事ですが、だからといって許容範囲が狭いのは決して褒められたことではありませんよ。ともすれば狭量に見える事だってあります。
では、どのような心構えを持つべきなのか。それについて、今回は少しお話ししようかと思います。
戦国期の茶人で千利休の師匠に当たる武野紹鷗は、
他会の批判申すまじきこと(桑田忠親編『茶道名言辞典』東京堂出版 30頁)
という言葉を残しています。また茶人として名高い武将・藤堂高虎も
人の芸能または諸道具などこなすべからず、面面数寄ずきなるべし(『茶の湯便利手帳4茶の湯人物事典 略伝・ことば・逸話』世界文化社 181頁)
と述べて、点前の良し悪しや道具の趣味について他人を貶してはならないと誡めています。自分の尺度に合わないという理由で安易に批判するのは好ましくない、という事が昔の茶人の言葉からも読み取れるかと。
また、中国後漢末期に目を向けてみましょう。当時の有力武将・劉備には智者として知られる龐(ホウ)統という家臣がいました。龐(ホウ)統は人物評価を好み、その際には実際よりも高い評価をするのが常であったといいます。大げさに褒める事で相手を乗せ、より励ませるのが狙いだったとか。
他人を批評する際は、彼らのようなありようを念頭に置きたいものです。そもそも、否定から入る批評は相手を委縮させ、場合によってはその分野から撤退させかねません。それは裾野の減少、ひいてはジャンルの衰退を招く結果につながる危険もありますからね。無論、まったく欠点を述べるな、なんてそんな無茶は言いません。ただ、基本的な姿勢として肯定的に受け止め、その上で改善すべき点を手短に述べるという形にしたいものです。手に汗して何かを生み出した相手に対し、享受する側としてはそれが礼儀だと思います。むろん、欠点によって実害が生じる場合はこの限りではありません。その場合はしっかりと害を指摘し是正なり処分なりを求めるべきでしょう。
こうした心構えを持つため、どのような事に意を払えば良いのでしょうか。まず言える事として、
・自分でも他人に見せる事前提に何かを作る
というのは有効だと思います。自分でも満足いくものを作るというのがいかに難しいか熟知できますし、批評される側に回る経験は批評する際に当たっても良い肥やしになるかと。しかし、何かを作るにしても実際問題としては難しい、という人もいるでしょう。そこで別の方法として
・「残念な出来」だと衆目が一致するような作品を鑑賞し、「良いところ探し」をする
というのも場合によってはありだと思います。例えば映画とかゲームなどでは、そういった作品は時に聞かれますよね。そうした作品群を敢えて味わうのです。その際、ただ見るだけ、世評に乗ってけなすだけではダメです。それだけなら誰だってできますから。あえてそうした作品群を褒めるつもりで鑑賞する。それがどうしても無理なら、「残念さ」をもじっくりと愛でるつもりで味わう。その際も、作者の志は極力認める方向の気持ちを持つ(それすらも難しい時もあるかもですが)。そのくらいの心持で臨むべきでしょう。
そういった体験をすれば、ちょっと気に食わないからといって簡単に否定する、という事はやりにくくなるのではないでしょうか。あるいは、普段触れている「作品」が何だかんだ言って悪くない、と実感できるかもしれない。
それに加えて、「残念」とされる作品の意外な魅力を見つけてやれるかも。いったん悪評が定着すると、必要以上に悪く言われている作品もあったりしますから、そうした作品を見出して美点にしかるべき評価を与えるのは有意義な事だと思いますよ。
前回に述べたように、良いものに触れて美意識を磨くのは大事です。しかしその逆の体験も場合によっては有意義なのかもしれません。まあ、あくまで一つの選択肢として申し上げているまでで、必須だとかいってる訳ではありません。念のため。
我ながら無茶を言ってるとは思いますし、こうした苦行を他人に強いるのは問題があるとも思います。ですが、自分では生み出さず他人様の作品をどうこう言う立場であれば、それくらいの心構えでいた方が良いのではないかな、という気もします。実行するかどうかはともかくとして。
そういえば、とある漫画作品で
毒も喰らう 栄養も喰らう 両方を共に 美味いと 感じ―血肉に変える 度量こそが 食には肝要だ(板垣恵介『範馬刃牙』30巻 秋田書店 60-61頁)
と発言した人がいました。まあ、流石に食でそれをそのまま文字通り受け取る訳にはいきません。へたすれば命にかかわります。しかし、直接危害を加える恐れのない文化作品等を鑑賞する際には、そのくらいの懐の深さがあった方が良いのかもしれません。実行するかどうかはともかくとして。
少々無茶な事を言ったりもしましたが、ここで結論。他人を、そしてその作品を批評する際には、美意識は磨きつつ、懐は深く心は広く。こうありたいものです。
【参考文献】
桑田忠親編『茶道名言辞典』東京堂出版
『茶の湯便利手帳4茶の湯人物事典 略伝・ことば・逸話』世界文化社
陳寿『正史三国志5蜀書』井波律子訳 ちくま学芸文庫
板垣恵介『範馬刃牙』30巻 秋田書店
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関連サイト:
「NAVERまとめ」(http://matome.naver.jp/)より
「Facebook上のビジネスパーソンの間で話題の「薩摩の教え~男の順序」とは?」(http://matome.naver.jp/odai/2134822900581918901)
出典は不明らしいですけどね。頭の片隅に置いておきたい言葉だとは思います。