グルメ娯楽読み物の歴史は長い~明治のグルメ小説『食道楽』~
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とはいえ、現代の読者には必ずしも面白いものではないかもしれません。というのは、上述のように弦斎の作風は穏やかで平和的なものですから、登場人物たちも基本的に温和で善良で常識的。それ自体はよいのですが、それは同時に現代の目から見ると、娯楽としていささか刺激が足りないかもしれない、ということ。ちなみに、同じ作者による物語形式で飲酒の害を説く『酒道楽』という作品もあります。
それでは、なぜ『食道楽』はここまで売れたのか。当時の日本は、西洋文明の摂取にいそしんでいる真っ最中でした。そうした時代に生きる人々が、近代的な調理器具や西洋の珍しい食材・料理に対する興味も深々だったのは想像に難くないでしょう。『食道楽』はそうした時代のニーズを捉え、人気を勝ち得たもののようです。知識層を中心に、好奇心から作品世界に引き込まれる人は多かったとか。
とはいえ、当時においてどの程度実用的だったかという面では、疑問がなくもないようです。例えば、啓蒙的なのは良いけれど日本ではまだ手に入らない材料や家庭で実行するのは無理がある方法が書かれていた、と評する向きも。一例として、「ライスカレー」の作り方についての部分を見てみますと、下ごしらえに三時間煮詰め、イギリス風だと薬味は24種類、オランダ風で14種類。最低でもココナツ・ピクルス・畳いわしなど8種類は欲しいと書かれています。専門の料理店でなければ当時は厳しかったのではないか、という指摘もあります。まあ、実用性どうこうより憧れの食生活の香りを運んでくれる、というのが魅力として大きかったのではありますまいか。
ともあれ、美食を扱った娯楽作品が人気を博するのは、人々の間で食生活への関心が高いという事。その意味では、文化的な円熟度を表す指標の一つかもしれません。そして、戦後になるとそれにとどまらず娯楽性も高い作品を生み、更に「美味しいものを食べる」事より「美味しくものを食べる」事に重点が置かれた作品も生まれてくる。我が国の娯楽文化は、グルメ部門だけを見ている限り順調に成長・成熟していると言えそうです。
【参考文献】
長山靖生『日本SF精神史』河出ブックス
村井弦斎『食道楽』(上)(下) 岩波文庫
村井弦斎『酒道楽』岩波文庫
『日本大百科全書』小学館
山本夏彦『誰か「戦前」を知らないか』文春新書
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