江戸の芝居における尊氏と坊門清忠~後方で足を引っ張る「味方」は敵より憎い?~
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問題の作品は、『太平記 住吉巻 車還合戦桜』といいます。文耕堂の作品とされ、享保十八年(1733)四月八日に大坂・竹本座で初演されました。あらすじは、以下の通りです。
坊門清忠が謀反をたくらみ、大森彦七が所有する正成遺愛の宝刀を手に入れようとする。一方、彦七はそれに屈せず、許嫁である正成の娘に刀を渡すという話。作中、護良親王の遺児であるという設定の「鄙の宮」なる人物が和泉国横山に隠れ住んでいたが足利方に発見される。
尊氏が正成の七回忌に湊川へ石碑を建立。その前で楠木正行と鄙の宮が出会い、尊氏は自らが奉ずる北朝・光明天皇の後継に鄙の宮を迎え、足利氏・楠木氏が協力して皇室を守護する事で話がつく。かくして南北朝廷が合一する。
尊氏は敵方ではあるものの、最終的に楠木氏と和解し南朝皇族を守り立てる善玉的ポジション。近代の皇国史観からすると、信じられないような筋立てですね。一方で、この話で悪玉となっているのは坊門清忠という人物。
では、この坊門清忠とはどのような人物なのでしょうか?清忠は後醍醐天皇に側近として仕えた貴族の一人です。それがなぜ、悪役扱いなのか。それは、楠木正成が戦死した湊川の戦いの直前に理由があります。『太平記』の伝える所では、楠木正成は後醍醐天皇に戦に先立ち、京をいったん明け渡した上で足利軍を兵糧攻めにする、という作戦を奏上しています。いったんは受け入れられたこの作戦、しかしながら一人の貴族が反対したために流れてしまいました。その結果、正成は極めて不利な戦いへ死を決して臨み、戦死。後醍醐政権はこれを契機に瓦解しました。この貴族こそ、清忠だったのです。そうした事情から、清忠は正成の戦没を事実上決定づけた人物として後世から憎悪されたようです。まあ、後醍醐に責めを負わせるわけにいかず彼がスケープゴートになった可能性はあるようですが。
関連サイト:
「史劇的な物見櫓」(http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/REKISIMENU.HTML)より
「ほうじょう~ぼうもんきよただ」(http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/jiten/ho.html)
敵手であるはずの尊氏が善玉的な役割で話を追えている一方、最後まで後醍醐天皇に付き従った清忠は謀反を起こす悪人という扱い。それも、湊川直前のあのシーン一つのせいで。後方で足を引っ張る「味方」はいっそ敵より憎い、という心情が存在した事が『太平記 住吉巻 車還合戦桜』から何となくうかがい知れますね。
【参考文献】
土橋眞吉著『楠公精神の研究』大日本皇道奉賛会
『日本古典文学大系太平記』一~三 岩波書店
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
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「義仲はバカ義経よりはるか上 ~江戸時代のひねくれ源平合戦名将論~ 紹介・随筆『我宿草』」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
南北朝関連は
「南北朝関連発表まとめ」
を御参照下さい。
楠木正成じゃなくて源義経に関しては、こんな過去発表が。
「源義経に関連する能・歌舞伎演目」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/020510b.html)