南北朝における今様~パロディの元ネタになる程度には認知されてる?~
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後醍醐天皇の求めに応じ、鎌倉政権に敵対して赤坂城で挙兵した楠木正成。正成は鎌倉政権の大軍に抗して力戦するものの、この時点では力不足と判断して城に火をかけて姿をくらまします。そしてしばらくの間は旅芸人一座に車引きとして身を隠し時期を待つことに。しかし鎌倉側もさるもの。ある関所でこの一座が正成を匿っていると看破されかけます。関所を司っていた足利高氏(のち尊氏)は、問題の車引きに疑いを晴らしたければ一座にふさわしい舞を見せよと要求。正成はこれに応じて滑稽な歌舞を見せ、高氏も怪しいものではないとして一座を通過させた、という内容です。
もっとも実のところ、既に鎌倉に対して腹に一物あった高氏は一座の正体を知った上であえて通したようです。あと、言うまでもないですが、この逸話はドラマオリジナルで、史実ではありませんからくれぐれも御注意を。
関連サイト:
「史劇的な物見櫓」(http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/REKISIMENU.HTML)より
「太平記15」(http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki15.html)
さて、問題の場面を視聴する限り、正成はこう歌っていたようです。
冠者は女設けに来んけるや
構へて二夜は寝にけるや
三夜といふ夜の真夜中に
袴取りして逃げけるや
この歌、平安末期の歌謡集『梁塵秘抄』に掲載されている実在のものだとか。正確には、
冠者は妻設に来んけるは、かまへて二夜は寝にけるは、三夜といふ夜の夜半ばかりの暁に、袴取して逃げにけるは。
(佐佐木信綱校訂『新訂梁塵秘抄』岩波文庫 63頁)
となっています。大河ではリズムを優先して少し変えたようですね。
歌の意味はだいたい以下の通り。ある女の所に若者が求愛し二晩続けて通った。ところが、三夜目の夜中、何を思ったか逃げ出したという内容ですね。平安期には、新婚三日目に男に餅が供され、正式に婿として披露される風習があったそうです。なのに、その直前に男は慌てて逃亡。当初から騙すつもりだったのか、(通って初めて実際に目にしたであろう)新婦が好みに合わなかったのか、理由ははてさて。
ところで、御存じの方もおられるかと思いますが、ここで少し説明を。この『梁塵秘抄』は後白河法皇が「今様」を集積し編纂したものです。「今様」という言葉は当世風という意味で、平安中後期に従来の和歌とは異なった旋律・リズムを持つ歌謡を指してこう呼んでいました。遊女・遊芸人・巫女などが歌っていたものですが、和歌とは違う形式や卑俗な歌詞に興味を持った貴族たちの間でも流行するようになり、「今様合」という競技も行われるようになったとか。『枕草子』『紫式部日記』に記述がある事から、11世紀初頭には貴族社会に定着していたとみられています。特に源平合戦期の後白河法皇は今様に熱中し、上述のように『梁塵秘抄』を編纂した事は知られています。当初は不規則な形式でしたが、次第に七五調四句という形が定着していったそうです。
とはいえ、今様が社会的に流行したと言ってよいのは鎌倉前期までのようで、だとすると正成扮する車引きが今様にのって舞うのは妙なんでしょうか?
実のところ、南北朝において今様の姿が見られなかった訳ではなさそうです。というのは、建武政権における混乱した世相を皮肉ったものとして「二条河原落書」が知られていますが、この落書、
此の頃京(みやこ)にはやるもの、肩当腰当烏帽子止、襟の立つかた、錆烏帽子、布打の下の袴、四幅の指貫。(同書 67頁)
といった今様の物尽くし歌を元ネタにしたパロディなのです。歌い出しが共通しているのはお分かりいただけるかと。
この事例から考えると、南北朝期には今様は全盛期を過ぎていたとはいえ、少なくともパロディの元ネタになる程度には知識層などの間には認知されていたと見てよいのでしょう。そう考えると、正成が今様を口ずさみながら舞った大河の逸話も、オリジナル創作ながらもリアリティが皆無という訳ではないのかもしれません。
【参考文献】
佐佐木信綱校訂『新訂梁塵秘抄』岩波文庫
『日本大百科全書』小学館
『世界大百科事典』平凡社
小野恭靖『中世歌謡の文学的研究』笠間書院
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「「落書」を通史的に考える」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/rakusho.html)
関連サイト:
「日本今様謌舞楽会」(http://imayou.jp/)
「京都市歴史資料館情報提供システム フィールド・ミュージアム京都」(https://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/index.html)より
「二条河原の落書」(https://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka08.html)
※2015/8/31 一部間違いがあったので修正しました。