新田義貞が稲村ケ崎で起こした奇跡について~『梅松論』にも似た話が実はありました~
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すなわち、義貞が海に面した隘路である難所・稲村ケ崎から攻め入ろうとした際の事。彼は龍神に祈りをささげ、自身が身に着けていた「金作(こがねづくり)の太刀」(大町桂月校『学生文庫第8編 太平記第1編』至誠堂 289頁)を海に投じたところ、
誠に龍神納受やし給ひけん。その夜の月の入に前々更に干る事も無かりける稲村崎、俄に二十余町干上って、平砂渺々たり。横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥の沖に漂へり。不思議と云ふも類無し。(同書 同頁)
とあるように急に潮が引いて軍船も遠くに追いやられ、義貞軍はこの地を突破できたというものです。戦前にはこの逸話は有名で、例えば文部省唱歌『鎌倉』でも一番の歌詞で取り上げられています。
とはいえ、今日の眼からすれば信じがたい話ではあります。この時代を扱った大河ドラマ『太平記』では、以下のような解釈になっていました。鎌倉を攻めあぐんだ義貞が
・別働隊に激しい攻撃を仕掛けさせ敵の眼をそちらに向ける。
・その間に少数の部隊を鎌倉市内に密かに潜入させあちこちに火を付けさせ撹乱する。
・そうして敵の注意が逸れたところで、義貞自身は稲村ケ崎の干潮時刻を待って突入する。
という作戦を実行。稲村ケ崎沖合の軍船は鎌倉市中の火の手を見て突破されたと思い込みそちらに注意がいったのもあり、義貞軍は干潮の稲村ケ崎を突破できた。太刀の海中投下は、作戦開始直前に義貞が神に作戦成功を祈ったものとなっています。なるほど、これならありえそうです。
関連サイト:
「史劇的な物見櫓」
(http://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/REKISI/REKISIMENU.HTML)より
「「太平記」大全 第二十二回「鎌倉炎上」」
(http://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki22.html)
さて閑話休題。同時代にこの戦乱を描いたもう一つの軍記『梅松論』は、この辺りについてどう述べているのかといえば、こんな描写が。
五月十八日の未(ひつじ)刻計に、義貞の勢は、稲村崎を経て、前浜の在家を焼払ふ煙見えければ、鎌倉中の騒ぎ手足を置く所なく、周章ふためきける有様、譬へて言はん方ぞなき。(物集高量校註『校註日本文学叢書10 神皇正統記 梅松論 読史余論』広文庫刊行会のうち『梅松論』30-31頁)
爰(ここ)に不思議なりしは、稲村崎の浪打際、石高く道細くして、軍勢の通路難義の所に、俄に塩干して合戦の間、干潟にて有りし事、かたがた仏神の加護とぞ人申しける。(同書のうち『梅松論』31頁)
ここからは、太刀を投じたかはともかく、
・義貞軍は難所・稲村ケ崎から突入。
・その際、急に引き潮になって干潟となったため突入しやすくなった。
・人々は神仏の加護と言い合った。
といった『太平記』の描写を思わせる内容が読み取れます。こうしてみると、「稲村ケ崎の奇跡」の逸話は、誇張はあるかもしれないが基本的な内容はそれなりに信用できそう、少なくともリアルタイムで既に口の端に上っていたものだ、と考えて良さそうな感じですね。
【参考文献】
大町桂月校『学生文庫第8編 太平記第1編』至誠堂
堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』岩波文庫
物集高量校註『校註日本文学叢書10 神皇正統記 梅松論 読史余論』広文庫刊行会
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
南北朝関連は
「南北朝関連発表まとめ」
義貞の伝記レジュメもあります。