西国攻めにおける新田義貞を弁護してみる~出立遅れは結果論の可能性、原因は兵糧?~
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さて、義貞が批判されるポイントの一つに、「西国へ落ち延びた足利軍への追撃が遅れ、足利軍が立ち直る時間を与えた」というのがあります。足利尊氏は色々あって建武政権と敵対し、建武二年(1335)年末に関東から攻め上って京を占領。翌年一月から二月初頭にかけての激戦の末、新田軍を始めとする朝廷軍はいったん足利軍を追い払うのに成功します。足利軍は九州へ落ち延び、義貞は朝廷軍司令官として追撃する立場になりました。しかし、その時の出発が遅れたというのです。『太平記』は
この時、もし早速に下向せられたらましかば、一人も降参せぬ者はあるまじかりしに、例の新田の長僉議なる上、その比、世に聞こえし勾当内侍を貴寵せられける初めにて、暫時の別れをも悲しみて、建武三年三月の末まで、西国下向の事延引せられける(兵藤裕己校注『太平記 三』岩波文庫 33頁)
と述べています。優柔不断な上に、美女の容色に溺れて好機を逃したという内容ですね。これは、上述のように従来から義貞の評価を下げる要因とされているようです。例えば『帝王後醍醐』の著者である村松剛氏も、勾当内侍の件は史実かどうか疑わしいとしつつも義貞の出陣時期が遅くなったことに関しては「これは武将としておよそ信じがたい行動」(村松剛『帝王後醍醐』中公文庫 402頁)と厳しく批判しています。
しかしこの批判、見当はずれではないにせよ結果論に過ぎない可能性があります。というのは、敵方である足利陣営においても、上記の義貞と比較しても、よほど悠長というか慎重と評すべきか迷うような意見が出ていたようなのです。という訳で、足利寄りの記録である『梅松論』を見てみましょう。
菊池氏など敵対勢力を破って九州を平定した足利軍。その陣営内では、
斯くて帰洛の事両儀あり。一には諸国の味方、力を落さぬ先に急がるべきか。一には兵糧の為めに秋を待つべき歟。(物集高量校註『校註日本文学叢書10 神皇正統記 梅松論 読史余論』広文庫刊行会のうち『梅松論』の79頁)
といった具合で急いで上洛すべきか秋まで待つべきか意見が二つに割れていたそうです。秋までとは随分とのんびりした話にも思えますが、この議論、すぐには結論が出なかったようで。足利軍は大宰府で一か月滞在したそうですから、意思決定にそれだけかかったとみてよいでしょう。
結局は、播磨の赤松から
新田金吾大将として、多勢を以て当城に向ひて陣を取る。円心が一族、其外京都より九州へ参ずる輩馳せ籠る間、城の中の勢満足すといへども、兵糧用意なきの間、君御帰洛延引あらば、堪忍せしめ難し。御進発を急がるべし。(同書 同頁)
という救援要請があり、備前三石の味方からも脇屋義助が攻めてきたが「兵糧用意なき由」(同書 同頁)という訳で急ぎ援軍をと求めがあり、足利軍はすぐに上洛する運びとなったのです。
確かに、結果だけを見れば急いで上洛した足利軍の前に、赤松を攻めあぐんだ新田勢は不利に追い込まれ湊川で敗北する訳です。しかしながら、上記を見る限りでは、実のところ足利軍がもっとのんびりしていれば結果は違ったものになっていたかもしれませんし、実際問題としてそうなっていた可能性も十分あったと言えます。
新田軍を翻弄していた感を持つ赤松軍も、『梅松論』を見る限り実は結構ギリギリの戦いだったようです。もし九州への連絡が何かの理由で遅延していたら、連絡がいっても足利本軍が兵糧を心配して動かなかったら…。実は足利軍の勝利は紙一重だった可能性が。
…何というか、『梅松論』を通じて足利方目線から見れば、義貞は普通に強敵だと感じます。敵として打つべき手は何だかんだで打って来る印象ですし。
さて、新田軍の動きが「遅れた」理由は何だったのか。おそらくは、こちらも兵糧の不足でしょうね。赤松軍、三石の足利軍、足利本隊いずれも兵糧を心配している事から考えて、新田軍陣営も同様な問題を抱えていても不思議ではありません。実際、上述の赤松則祐も新田軍は「粮尽きたる」(同書 49頁)と述べています。また、『太平記』の流布本では、兵糧不足に悩まされた新田軍の武者が現地の麦を刈り取って問題になったという逸話を載せています。それが史実かはともかく、食糧問題に新田軍が悩まされていた可能性はうかがわせる話です。義貞は、兵糧確保のめどが立たず出陣への踏ん切りが遅れ、結果として敗北につながったのではないでしょうか。
結果を見れば、義貞の決断が足利軍と比べて遅れを取った形になったのは否めません。しかし「武将として信じがたい行動」では決してなく、十分ありうる範囲内の行動だったのではないかと思います。少なくとも足利軍は、月単位で、それ以上に悠長とも思えるような選択肢を真剣に考慮していたわけですし。
というわけで、この結果については、義貞をどうこうあげつらうよりも、単純に足利方の果敢さや果断さを褒めるべき所ではないかな、という気がします。事実、『太平記』中の赤松則祐も足利軍再上洛について、項羽の背水の陣になぞらえる形で大きな賭けである事に言及していますしね。
義貞という人は、つくづくツキがない。改めてそう思わされる話でした。
【参考文献】
兵藤裕己校注『太平記 三』岩波文庫
村松剛『帝王後醍醐』中公文庫
物集高量校註『校註日本文学叢書10 神皇正統記 梅松論 読史余論』広文庫刊行会
大町桂月校訂『太平記 第2編』至誠堂書店
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「新田義貞」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshisada.html)
その他、南北朝関連については
「南北朝関連発表まとめ」
を御参照ください。