<過去記事案内>「正義は我にあり」と思った時こそ要注意
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昔、こんな記事をMyが書いていました。この記事で話題になっているのは、一種のだまし絵とのこと。見る人によって、男女のペアにみえたりイルカの群れに見えたりするそうです。人の先入観によって、絵というのは見え方が変わって来るものなのですね。
さて、世の中には様々なイラストやポスターがあふれかえっています。時には、いかがわしかったり不健全に見えたりすることがあるかと思います。そんな時、見過ごせず問題提起したくなるのは無理もないことではあるでしょう。しかし、そんな時でも、問題にする前に自らに問いかけた方がよいかもしれない。「不健全なのは、本当にその絵なのか」と。「本当にいかがわしいのは、絵ではなくそこに不健全さを見出した己の心ではないのか」、と一度は考えてみるのは決して無意味な事ではないと思います。少なくとも、「自分が気に入らない」と「不健全である」を混同するようなことはあってはならないかと。
まあ確かに、イラスト等に明らかに悪意が含有されていると考えざるを得ない事例もあるようです。非常に悲しい事ではありますが。ただ、その場合すらも、正義・悪といった観点から相手を糾弾するのは問題があるかもしれません。これについては、後で少し触れるかも。
話は変わって。分かりやすい「正義」を掲げる時、注意が必要なように思います。一つ例を挙げるなら、人権問題でもそうだと思います。人はすべて平等、という原則はみなわかっているものと思います。しかし、一方で残念ながら差別感情からなかなか自由になれないのも人間。世間のあれこれに差別感情が潜んでいる、と感じ取る事は多々あるでしょう。しかし、これも相手に差別者という烙印を押すのは慎重でなければならないと考えます。また、差別感情があると判定せざるを得ない場合も、大上段に糾弾するのはいかがなものかと思うのです。分かりやすい「正義」が自分にあるが故に、かえって大事なものが見えなくなってしまうかもしれないからです。
人権を振りかざして活動することで、救済すべき人々をかえって苦境に追い込んだ事例があります。人権を声高に唱えた人々に、褒められたものではない裏があった事例もあります。
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むろん、これは一般化するには無茶な極端な事例ではあるでしょう。ですが、誰も反対できないほどにわかりやすい「正義」を掲げた結果が醜悪なものになりうることは、常に頭の片隅においてほしいものです。人間、己の「正義」に酔ってしまうと意外に他の事が見えなくなるように思いますので。
人間というのは、どうしても過ちを犯す存在です。だから、他人の過ちにも寛大でなければならないし、本当に誤っているのは相手なのか、常に検証していなければならない。そういう観点から、自分の「正義」に関しては頭の片隅に常に疑念を抱いているべきかと。まあ、明らかに悪意が向けられている、あるいは明らかに直接の実害がある、という場合は勿論そう暢気な事もいってられないでしょうけど。それでも、基本的に自らの「正義」を過信せず慎重・寛大な態度でありたいものです。そして、明らかに自分が正しいと思われる場合でも、相手を上段から叩きのめしたり人格否定したりするのはいかがなものでしょう。
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「正義は我にあり」と思った時、相手にどのような態度に出るか。そこに、その人の度量や人としての器が現れる。そう思う事が多い、今日この頃です。無論、明らかに直接的な実害があったり明白な悪意が認められる場合は、迅速に相応の対処が必要でしょう。それでも、その際には相手を「正義の鉄拳で叩きのめす」のではなく、「罪を憎んで人を憎まず」の思いを持つよう努め(実際問題としてなかなか難しい事ではありますが)、相手の人格を尊重しつつ意見具申をする。そういう形が望ましいのではないかと思います。ましてや、一方的に問題の対象を存在価値を否定しようとは思ってはなりません。その時、「正義」は気に食わない他人を叩きのめすための道具に堕してしまうからです。我も彼も過ちをおかす事は免れない凡夫である、という事は決して忘れないように。「正義の使徒」が「悪の化身」をやっつけるのだ、といった錯覚は絶対にしないでほしいものです。狭量な「正義」は、時に有害だと思います。
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損得勘定から言っても、相手を上から目線で裁いたり人格攻撃する事は得策かは疑問です。何しろ、相手の恨みを買う以外に何の効果も得られないかもしれません。それだけでなく、周囲の第三者たちをも不快にしている可能性だって低くありません。その結果、待っているのは孤立ということだってあるでしょう。
ましてや、自らの「正義」に熱中するあまりに視野狭窄に陥り、別の「正義」に悖る結果になった場合。その時は目も当てられない事になるかもしれません。厳しく「正義」を追求していたはずの人物が、「正義」を踏みにじってしまった。そうなると、周囲の眼は通常以上に厳しいものになりえます。一瞬のうちに攻守ところを変える事態になるかも。実際、明らかな悪意が見られるケースにも、彼らなりに「正義」のため動いたと思われるのに道を踏み外した結果と想像されるものがチラホラありますから、心すべき事かと思います。
良かれと思い、正義感から出たはずの行動なのに、そのような結果になってはあまりにバカバカしいではありませんか。
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あなたが他人を裁く時、あなたも周囲から視線を向けられ器を裁かれているのです。それを、忘れないようにしてほしいものです。「正義」のために動いているつもりなら、だからこそ言動・行動には慎重であってほしい、そう思います。…とりとめもなく書いていたら、自分でも何を言っているか分からなくなってきましたので、このあたりにしておこうかと思います。