文豪・森鴎外が語る、幕末大名の名君っぽい逸話~庶民生活をこっそり視察、家臣のミスにも鷹揚~
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しかしながら、大名の皆が皆そうでないのは勿論の話。幕末期において、いかにもな名君らしい逸話を有する殿様もいたようです。文豪・森鴎外がそれに関して、作品中で証言を残していますので二つほど見ていくことにしましょう。
さて、東西を問わず、典型的な名君らしい逸話として、「人々の様子を知るため身分を隠して市井の人々を視察していた」というものがあります。我が国でも、徳川光圀や北条時頼がその手の話で有名ですね。
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鴎外によれば、幕末にもそうした殿様の事例があったようです。『渋江抽斎』作中から、関連する記述を見てみましょう。
弘前藩津軽家の侍医・渋江抽斎は謹厳実直な人物でしたが、その次男・矢島優善(やすよし)は父親に似ない浪費家・遊び人。そして、その友人塩田良三も類は友を呼ぶと称すべき存在だったようです。さて良三は父から呼び戻された際、豪遊しながらの旅をしていた訳ですが、途中で同行人がありました。鴎外曰く、
この時肥後国熊本の城主細川越中守斉護(なりもり)の四子寛五郎(のぶごろう)は、津軽順承(ゆきつぐ)の女壻(じょせい)にせられて東上するので、途中良三と旅宿を同じうすることがあった。斉護は子をして下情(かじょう)に通ぜしめんことを欲し、特に微行を命じたので、寛五郎と従者とは始終質素を旨としていた。驕子(きょうし)良三は往々五十四万石の細川家から、十万石の津軽家に壻入する若殿を凌(しの)いで、旅中下風(かふう)に立っている少年の誰(たれ)なるかを知らずにいた。寛五郎は今の津軽伯で、当時裁(わずか)に十七歳であった。
(「青空文庫」の「森鴎外 渋江抽斎」より)
…こっそり身をやつしていた若様に気づかず、放蕩者・塩田良三は偉そうな態度を取っていた訳ですね。時代劇だと、終盤で相手の正体を知って驚愕する展開が待ってそうです。
それはさておき、この肥後細川家から津軽家に養子入りした大名は承昭(つぐあきら)(※『渋江抽斎』作中では「つぐてる」の読みになっています)。領主となって後、幕末維新期には朝廷側について戊辰戦争では出兵したり函館戦争で兵站基地を提供したりといった形で新政府軍の勝利に貢献しました。更に明治三年(1870)には領内の大地主たちから土地を買い上げて藩士たちに分け与え、農業に従事させ士族たちの生活手段を援助しています。事典にも「時勢をみるに敏な人物」(『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社)と評されているように、変革期を巧みに泳ぎ切った傑物という感を受けますね。ひょっとすると、少年期に水戸黄門よろしく身をやつして世間を見ていたのが何らかの役になった可能性はありそうです。
閑話休題、徳川期における名君のパターンとしては、「身の回りの世話をする者が粗相をしても鷹揚に接する」というのがありました。うっかり怒りを表明してしまうと、相手を切腹に追い込んだりしかねませんから確かに大事な心得です。
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そうした逸話の具体例についても、鴎外は『伊沢蘭軒』作中で示してくれています。福山藩主・阿部正弘が病気療養中のこと。侍医が彼の病床を移そうとして、うっかり正弘の頭部病変に触れてしまいます。正弘はたまらず「嗚呼痛し」と叫び声。これは侍医の大失態です。侍医たちが「平常寛仁大度の主公と雖も、今日は必ず憤怒を発せらるゝならむ」と戦々恐々としているところへ、正弘から侍医筆頭の伊沢柏軒への召し出しが(この段落における鍵括弧内はいずれも「青空文庫」の「森鴎外 伊沢蘭軒」よりの引用)。さあ、件の医師、運命やいかに。ところが予測に反して、正弘の言葉はこうでした。
予今誤りて痛と叫びしも、実は痛みたるにあらず。顧ふに彼必ず憂心あるべし。汝能く告げて安意せしむべし
(「青空文庫」の「森鴎外 伊沢蘭軒」より)
<現代語訳>
私は先ほど、間違って「痛い」と叫んでしまったが、実は痛かった訳ではない。思うに、あの医者は間違いなく心配しているであろう。そなたが私の言葉を伝え安心させてやってほしい。
その上で、正弘は以下のような独り言を漏らし、反省しきり。
平生自ら戒めて斯る事なからしめむとす。今日は事意外に出づ。図らず此の如き語を発したり
(「青空文庫」の「森鴎外 伊沢蘭軒」より)
<現代語訳>
いつもは、気を付けてこんなことがないようにしているのだがなあ。今日は予想外な事だったから、うっかりあんな言葉を発してしまった。
こうした正弘の態度を見聞きした柏軒らは、その度量に感涙を禁じえなかったそうです。
この阿部正弘こそ、1853年にペリーが来航した際に老中首座として国政を司っていた人物です。彼はこの未曽有の国難に接し、条約締結を余儀なくされた一方で、様々な改革を主導しました。有力大名との協調を図ると共に、川路聖謨・岩瀬忠震といった俊英を身分にかかわらず登用。更に海軍伝習所・講武所の設置や砲台築造・韮山反射炉建設といった軍事改革、蕃書調所設立による海外事情研究といったものが挙げられます。しかしこうした改革路線は守旧派との対立も招き、それに悩まされ若くして病死しています。ペリー来航によって後手に回ったせいか「泥縄」という言葉が浮かばなくはないにせよ、割と迅速かつ積極的に相応な改革案を打ち出したあたり、この時期の政権担当者としては傑物と見て間違いないかと思います。
なおこの正弘、新たに藩主となった際にもちょっとした逸話があるようです。元日に家臣たちと謁見する儀式があり、その際に藩主は
前列の重臣等の面(おもて)を見わたし、「めでたう」と一声呼ぶ
(「青空文庫」の「森鴎外 伊沢蘭軒」より)
のが通例だと伝えられます。ところが十九歳の新藩主・正弘は
眸(まなじり)を放つて末班まで見わたし、「いづれもめでたう」と呼んだ
(「青空文庫」の「森鴎外 伊沢蘭軒」より)
ので家臣たちを驚かせたのだとか。当時がいかに先例第一になっていたか、そして正弘がその中で可能な限り新機軸を打ち出そうという意欲のある人物だった事を読み取れる話ですね。さりげない仕草・台詞の追加だけによって、自分は重臣だけでなく下級家臣たちも無視しないぞ、という意思を表明したものと見る事ができましょう。藩士たちの感激も理解できる気がします。
先例やらしきたりやらに縛られる中でも、俊英が出ないわけではないし、彼らはしがらみの範囲内であってでも精一杯にできる事をしようとしている。そんな事が伺えて、人間捨てたもんじゃない、と思わされる話でした。
【参考文献】
『日本大百科全書』小学館
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「森鴎外 渋江抽斎」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2058_19628.html)
「森鴎外 伊沢蘭軒」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2084_17397.html)
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(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/020621c.html)
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