義憤に駆られた際に思い出したい事~森鴎外の言葉から~
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日本の新聞は第一面の社説を始として、第三面の雜報まで、悉く此けしからんで充たされてゐる。悉く義憤の文字である。
(森林太郎『當流比較言語學』より)
といった具合とのこと。だとすれば、人間というのは、進歩も退化もあまりしない生き物と見えます。
それはさておき、この『當流比較言語學』において、鴎外は日本とドイツを単語・熟語の観点から比較しています。曰く、両国は言語だけでなく価値観も異なる。だから、同じ物事を指す単語でも含まれるニュアンスは変わる。片方で肯定的な意味合いがあっても、もう一方では否定的に捉える事がある。
現代人からすれば、当然に思える話ではあるでしょう。それでも、鴎外が語る以下の話は、僕の印象に残りました。
当時のドイツでは、義憤の叫びをそのまま発することはよろしくないと考えられているそうです。その理由はと問うたれば、
何故(なぜ)といふに若し傍(はた)から、「その義憤をなさるお前さんは第一の石を罪人に抛つ資格がお有りなさるのですか」と云はれると、赤面しなくてはならないと感じるからである。そこで義憤といふことが氣恥かしい事になつてゐる。それを敢てする人は面皮の厚い人とせられてゐる。
(同書より)
といった価値観があったからだとか。この考え方が現在ドイツにもあるのか、僕は不勉強にして存じません。しかしながら、考えさせられる話ではあります。義憤に駆られるな、とはもちろん申しません。「これはおかしい」と世の中の理不尽に怒りを覚えるのは人として自然です。そして、それを放置せず叫びを挙げる勇気は確かに褒むべきと考えます。ですが、感情に任せて噴き上がる前に、少し頭を冷やした方が良いかもしれない。いったん落ち着いて、自らを省みた方が望ましいかもわからない。そもそも自分の怒りが間違いなく正当であるのか、自分は相手を裁けるほど本当に立派か。それを自問自答した上であれば、相手を無闇に否定し追い詰める真似は起こりにくくなるのではないかと。それを心がければ、同じ非を咎めるにせよ、相手との関係も今少し円滑になるし、世間の雰囲気も少々穏やかになりはしないでしょうか?僕はそれを期待したいですし、自分もそうありたいと思う次第。
なお鴎外は、本編末尾でこのようにも述べています。
義憤の當否は措いて、何に寄らず、けしからんけしからんを連發するのは、傍から見ると可笑しい。日本人がそれを構はずに遣るのは、自分を可笑しくすることを厭はないのである。
(同書より)
自分をさておいて、正義の刃を振りかざして他人をこき下ろす様は、第三者からすれば快いものではないかもしれない。たとえ内容が正しかったとしても。その点は、念頭に置いておきたいものだと肝に銘じて、この場は擱筆する事とします。
【参考文献】
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/index.html)より
「森林太郎 當流比較言語學」
(http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/49248_36951.html)
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