森鴎外が回想する、明治初期の色々~文学といえば漢詩、休暇は藪入り…~
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中里介山の人気小説『大菩薩峠』は大正二年(1913)から書き始めた一大傑作。傑作だけに、時代考証については「どうでもいいと思って書きなぐったのでなくて、真面目に書いている、間違ったのを承知して書く、というようなところはない」と評されています。しかしそれでも、徳川期を知る人からすれば「言葉遣いや何かの上には、おかしいところがある。それから武家の生活ということになると、やはりどうもおかしいところが出てくる。」という状況であったようです(いずれも三田村鳶魚『中里介山の『大菩薩峠』』より)。
大正初期からすれば、徳川期なんて約半世紀前ですし色々と風俗も変わりました。だから、当時を覚えていない人の方が多くなるのもむべなるかな、と思います。徳川期どころか、明治末には明治初頭についても社会の記憶がおぼろげになっていたようです。
試みに、ここで森鴎外の小説『雁』を見てみましょう。この作品は、明治四十四年(1911)から大正二年(1913)にかけて執筆されました。舞台は、明治十三年(1880)における東京帝国大学周辺。作中舞台である明治十年代と執筆当時の間に生じていた様々な変化について、鴎外は解説する必要を感じたのでしょう。いくつかの分野に関し説明が述べられています。
鴎外の回想①文学
明治初頭の文学について、鴎外は
まだ新しい小説や脚本は出ていぬし、抒情詩(じょじょうし)では子規の俳句や、鉄幹の歌の生れぬ先であったから、誰でも唐紙(とうし)に摺(す)った花月新誌や白紙(はくし)に摺った桂林一枝(けいりんいっし)のような雑誌を読んで、槐南(かいなん)、夢香(むこう)なんぞの香奩体(こうれんたい)の詩を最も気の利いた物だと思う位の事であった。
(森鴎外『雁』より)
と陳述しています。
ここで、少し解説を入れましょう。「槐南」とは明治の古注学者・漢詩人であった森槐南の事。「夢香」は詞の名手だったという日下部夢香の事でしょうか?なお、詞は中国韻文の一種で、一句あたりの文字数は定まっておらず俗語が多めなのが特徴です。元来は楽曲に合わせたもので、宋代に持て囃された形式だとか。「香奩」とは化粧道具を入れる箱であり、そこから派生して女性の魅力や恋愛を妖艶に描いた漢詩を「香奩体」と呼ぶのだそうです。要は、明治初頭における文学界は漢詩文がメインだったという事ですね。いわゆる「近代文学」が登場するのはもう少し後。という訳で、明治十三年当時に文学趣味を持つ学生は、
漢学者が新しい世間の出来事を詩文に書いたのを、面白がって読む位に過ぎなかった
(同書より)
のだそうです。それが、言文一致の小説や近代詩歌へと文学の主流は大きく変化。その反面で、明治を終え大正になると漢詩文は急速に下火となり、次第に忘れられていきました。新聞の読者投稿欄から漢詩部門が消えたのは、大正半ばの事です。山本夏彦氏曰く、「ここで千年来の教養は絶えたのです。」(山本夏彦『誰か「戦前」を知らないか』文春新書 31頁)
鴎外の回想②歯磨き粉
歯磨き粉に関して、鴎外はこう述べています。
「たしがらや倒さかさに読めばやらかした」と、何者かの言い出した、珍らしい屋号のこの店には、金字を印刷した、赤い紙袋に入れた、歯磨を売っていた。まだ錬歯磨なんぞの舶来していなかったその頃、上等のざら附かない製品は、牡丹(ぼたん)の香(におい)のする、岸田の花王散と、このたしがらやの歯磨とであった。(森鴎外『雁』より)
明治十三年当時はまだなかった練り歯磨きが、明治末・大正初期には広がっていた事が読み取れます。
鴎外の回想③休暇
鴎外は、こんな事も言っています。
まだ明治十何年と云う頃には江戸の町家の習慣律が惰力を持っていたので、市中から市中へ奉公に上がっていても、藪入(やぶいり)の日の外には容易に内へは帰られぬことに極まっていた。(同書より)
藪入りというのは、1月・7月の16日ごろ。この日に、奉公人が休暇をもらい家へ帰る風習がありました。明治の間に日曜休日が普及し、その辺りの事情を知らない人が増えたという事なんでしょうか。
これだけの説明を要するということは、30年という時間や大きな変革に伴う記憶の風化は馬鹿にならないと見えます。同じ明治という時代においてさえ。まあ、30年どころか10年そこらもすると、少なからぬ人々から忘れられる事だって珍しくないようですけれど。例えば、永井荷風は関東大震災前の浅草を想い
昭和十二年、わたくしが初めてオペラ館や常盤座(ときわざ)の人たちと心易くなった時、既に震災前の公園や凌雲閣(りょううんかく)の事を知っている人は数えるほどしかいなかった。昭和の世の人たちには大正時代の公園はもう忘れられていた。その頃オペラ館の舞台で観客から喝采(かっさい)せられていた人たちの大半は震災後に東京へ出て来て成功した地方の人のみであった。(永井荷風『草紅葉』より)
と言っています。これに続けて、この昭和初期の情景も戦災で失われた、と荷風は慨嘆。…何というか、諸行無常ですな。
さて、10年はもちろん、30年とかそのあたりだと世間は忘れても、覚えている人はいる。では、そんな人が残っている限界は、どのくらい前までなんでしょうか。
山本夏彦氏は、1999年出版の著書で「明治はもう時代劇です。大正はまだおぼえている人がいるから気をつける。」(山本夏彦『誰か「戦前」を知らないか』文春新書 15頁)と述べています。この時点で、大正は約75-90年前。当時の記憶を持った人が存命している限界がこのあたりなんでしょう。人間の寿命と同じくらい、と考えるとなるほどと思わされます。幼いころの記憶を終生持ち続け、時代の証言者となる人が確かに存在するという事でしょうね。
【参考文献】
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「三田村鳶魚 中里介山の『大菩薩峠』」(http://www.aozora.gr.jp/cards/001133/files/43068_23915.html)
「森鴎外 雁」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/45224_19919.html)
「永井荷風 草紅葉」(http://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49641_38508.html)
『神田喜一郎全集』第六巻 同朋舎
加藤徹『漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?』光文社新書
山本夏彦『誰か「戦前」を知らないか』文春新書
『世界大百科事典』平凡社
『日本人名大辞典』講談社
『日本大百科全書』小学館
『大辞泉』小学館
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