徳川期の狂詩について概説~俳句→川柳、和歌→狂歌、なら漢詩→?~
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俳句の形式で滑稽な内容を読むのを川柳、和歌の形式で同様なものを狂歌と呼ぶのは御存知かと思います。特に狂歌は徳川中後期に流行し浮世絵の動向に対しても大きな影響力を持っていたらしく、永井荷風をして
狂歌は絵本と摺物においてよく浮世絵の山水画を完成せしめたるのみならず、また浮世絵の花鳥画においても見るべきものを出(いだ)さしめたり。
天明寛政の平民美術についてはその勢力隠然狂歌にありしといふことを得べし。
(いずれも永井荷風『江戸芸術論』より)
と言わしめています。
さて、徳川期には、文人を中心に漢詩も隆盛していたのは知られています。そして、漢詩の形式で川柳・狂歌と同様に滑稽味を追求したのが狂詩なのです。俗語・卑語を用い、無理な当て字などもあえて用いて卑俗な題材を詠じおかしさを醸し出す、というものでした。
狂詩のような作品は平安期からあったそうですが、盛んになったのは18世紀後半からでした。江戸で寝惚先生(大田南畝)が『寝惚先生文集』、京都で銅脈先生(畠中正盈)が『太平楽府』を発表。いずれも若かったこともあり評判となりました。なお、大田南畝は幕臣で「蜀山人」「四方赤良」といった号ももち、狂歌師・戯作者としても広く知られている多才な人物です。
その後、寝惚先生は『通詩選』『檀那山人芸舎集』、銅脈先生は『吹寄蒙求』『太平遺響』といった作品集を残しています。
19世紀前半には京都で安穴先生(中島棕隠)の『太平新曲』、江戸で方外道人『江戸名物詩』が評判に。幕末維新期には成島柳北が狂詩の第一人者だったそうです。
原則として、押韻・平仄を含め漢詩の規則に準ずるのが建前となっています。しかし、実際には人それぞれだったようです。少なくとも、徳川後期に第一人者とされた半可山人の『半可山人詩鈔』がその辺りもしっかりしていたこともあって評価が高かった、という話が『日本大百科全書』にわざわざ書かれていたところからすれば、厳密に守られていたわけではなかったのでしょう。実際、中国でも狂詩の場合は必ずしも平仄にはこだわらなかったとする話もありましたし。一方で、狂詩といえども漢詩の形式をとっているのだから平仄は守るべきだ、とする論者もあったようです。
漢詩のパロディで面白おかしく、というジャンルが大流行。意外と知られていない事実だったので、今回取り上げてみました。当時において漢詩がいかに定着していたか、というのを示すような話ですよね。
【参考文献】
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「永井荷風 江戸芸術論」(http://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49634_41512.html)
『大辞泉』小学館
『日本大百科全書』小学館 今回、これが一番主な情報源でした。
『世界大百科事典』平凡社
中野三敏『和本の海へ 豊饒の江戸文化』角川選書
山岸徳平『日本漢文学研究』有精堂出版
関連記事:
「「芳野三絶」~南北朝関連の作品を題材に漢詩を見る~」
平仄・押韻など漢詩の規則にはこちらで簡単に触れています。
「南北朝関連の律詩を鑑賞する~藤田東湖『楠公五百忌辰之詩』~」
「森鴎外が回想する、明治初期の色々~文学といえば漢詩、休暇は藪入り…~」
関連サイト:
「詩詞世界 全二千三百首詳註 碇豊長の漢詩」(http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/index.htm)より
「日本漢詩選」(http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/jpn_mn.htm)
一般の漢詩だけでなく、銅脈先生などの狂詩も結構収載されています。狂詩の場合、必ずしも平仄など規則にこだわっていないのもご覧いただけるとお分かりになるかと。