<言葉>森鴎外『伊沢蘭軒』末尾近くから~自分が自分であるために、常識より大事なもの?~
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しかしわたくしは学殖なきを憂ふる。常識なきを憂へない。天下は常識に富める人の多きに堪へない。(森鴎外『伊沢蘭軒』より)
なかなか、良い言葉だと思います。むろん、常識が不要だなんて無茶を言うつもりはありません。しかし、常識に流されて自分の考えを持てないような事態にはなりたくないと思います。そして、それ相応の考えを持つ基盤として、しっかりした学識を持っていたい。そのために、常に学ぶことを忘れないよう心掛けたい。そう思います。実行できているかどうかは知りませんが。
何らかの実害が生じたりするのでない限り、自分の考えを構築する上で、常識にこだわりすぎないよう心したいものです。何も自分がこだわらなくても、大多数の人が奉じているから常識と呼ばれるのですし。
もっともこの発言、実は鴎外の言い訳だったりします。以前の記事でも少し触れましたが、『伊沢蘭軒』はやたら長い上に難解な部分もあって、連載中既に読者から不満の声があがっていたようです。まあ、脱線したり、思い切った推論をやってみたり、文語文の手紙や漢詩をそのまま引用したり色々してましたからねえ。不平が出るのは分かる気がします。個人的にはそこが面白かったのですけど。ともかく、そうした不満・苦情への弁明に末尾近くは費やされており、その中で生まれたのが今回ご紹介したフレーズだったわけです。
ただ、この文が生まれた経緯はともあれ、心に焼き付いて離れない言葉となったのも事実です。これは決して僕だけではないようで、永井荷風の作品でも、言文一致体で数少ない朗吟するにたる文章としてこの一節が挙げられています。内容もさることながら、美しい日本語である事も大きいんでしょうね。そうした言葉を発せる人々には、憧憬を禁じ得ません。その意味でも、やはり、学殖は持っていたいものです。
【参考文献】
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「森鴎外 伊沢蘭軒」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2084_17397.html)
「永井荷風 濹東綺譚」(http://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/52016_42178.html)