徳川期、一般人への漢詩普及具合を見る~元禄あたりからのようです~
|
関連記事:
「徳川期の狂詩について概説~俳句→川柳、和歌→狂歌、なら漢詩→?~」
「明治の漢詩事情~忘れられた「文壇の主流」、「漢詩最盛期」~」
では、いつごろから漢詩は広く日本人に嗜まれるようになったのでしょう?どうやら、調べた限りでは元禄年間を境に民間へも漢籍が商業ベースで広まり、武士だけでなく町人もこれを読むようになっていたのだそうです。時の将軍・徳川綱吉は学問を好み文治政治を推進した人物でした。それを象徴するかのような現象ですね。
元禄年間のサンプルとして、尾張藩士・朝日重章の事例を見てみましょう。以前の記事でご紹介した、日記『鸚鵡籠中記』を記した人物です。彼は、十九歳の元禄五年正月に以下のような詩を作ったと日記に記しています。
元旦試筆
春睦始今半酔中
梅雨東行日輪紅
千峯霞上一瞬裏
鶯徒柳条歌恵風
平仄は以下の通りです。漢詩の大雑把な規則はこちらを見ていただけたら幸いですが、○が平音、●が仄音、◎が押韻です。
○●●○●●◎
○●○○●○◎
○○○●●●●
○○●○○●◎
押韻は「中」「紅」「風」と「上平声一東」平仄が奇異なようにも見えますが、これにつきましては、詳しい人の御教示をいただければ幸いです。
考えてみれば、これはなかなかに凄い話です。重章は武士ではありますが、当時としては特別に学識・教養に長じていたとみなされていた訳ではありません。いわば「どこにでもいる普通の武士」として一生を過ごした人物です。そんな彼が、外国語である漢詩を作ろうと思い立ち、それっぽいものを仕上げた。仮に上述した平仄に問題があったのだとしても、十分賞賛に値するかと思います。思えば、戦国期には、大名クラスですら漢詩の心得がある者は限られていました。それを考慮すれば、重章が漢詩を作った事実が評価されてよいという事が実感で来るのではないでしょうか。まして、この処女作を契機に詩文に興味を持った重章、数年後には文人たちと交わりを持つようになるのですから大したものかと。
元禄期にはそれだけ、漢籍・漢詩が一般に普及しだしていた。この風潮を分かりやすく示した事例と言えましょう。
ついでですからもう一つ、民間の人間による漢詩の事例を見てみましょう。時は流れ幕末。博徒・日柳燕石は幼いころから漢学を学び、漢詩・書画に長じていたそうです。勤王家でもあり、高杉晋作をかくまった義侠の士としても知られています。そんな彼による作品はこちら。
問盗
問盗何心漫害民 盗に問ふ 何の心ぞ 漫に民を害すと
盗言我罪是繊塵 盗は言ふ 我が罪 是れ繊塵
錦衣繍袴堂堂士 錦衣 繍袴 堂堂の士
白日公然剥取人 白日 公然 人を剥取す
<現代語訳>
盗賊に尋ねた、「どうして人々に危害を加えるのか」と。
盗賊が言うには、「私の罪など、ささいなものでしかない。」
「何しろ立派な服を来た堂々たるお偉いさんが、
白昼、公然と権力をかさに人々から搾取しているじゃないか。」
平仄は以下の通りです。
●●○○●●◎
●○●●●○◎
●○●●○○●
●●○○●●◎
押韻は「民」「塵」「人」と「上平声十一真」。
こうした一般武士・庶民レベルにまで漢籍・漢詩に心得・関心がある人が少なからずいた。徳川期は、人々の教育レベルという点では、確かに驚くべきものがありそうです。
【参考文献】
神坂次郎著『元禄御畳奉行の日記 尾張藩士の見た浮世』中公新書
加藤徹『漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?』光文社新書
『角川新字源改訂版』角川書店
新田大作『漢詩の作り方 改訂版』明治書院
菅原武『漢詩詩語辞典』幻冬舎ルネッサンス
『新釈漢文大系 日本漢詩 上』明治書院
『日本大百科全書』小学館
関連記事:
「「芳野三絶」~南北朝関連の作品を題材に漢詩を見る~」
「徳川期の狂詩について概説~俳句→川柳、和歌→狂歌、なら漢詩→?~」
「明治の漢詩事情~忘れられた「文壇の主流」、「漢詩最盛期」~」