今年の大河ドラマ『真田丸』、いよいよ関ケ原合戦も終わり佳境へと近づきつつあるようですね。大坂の陣編のポスターが発表され、評判を呼んでいるようです。
関連サイト:
「NHK大河ドラマ『真田丸』」(http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/index.html)より
「大河ドラマ『真田丸』大坂の陣編ポスタービジュアルが完成!」(http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/information/news/20160916.html)
主人公・真田信繁(幸村)は、大坂の陣で徳川方の大軍相手に奮戦し、最後には徳川家康に身の危険を覚えさせるまでに追い詰めた武将として知られています。今年のドラマでは、その活躍がどう描かれるのか、楽しみです。ドラマでは、信繁は大坂の陣直前から「幸村」を名乗るという設定だそうで。
関連サイト:
「togetter」(http://togetter.com/)より
「NHK大河ドラマ「真田丸」大坂の陣編ポスター発表に沸き立つ、 #真田丸 クラスタの皆さん【「真田信繁」から「真田幸村」へ】」
(http://togetter.com/li/1024969)
さて、そんな家康と信繁に関係した伝承が、大阪と隣接する奈良の地にも残っているようです。その伝説の概要は、以下の通り。
時は大坂冬の陣、慶長十九年(1614)十一月十五日のこと。木津での合戦で真田幸村(伝承内においては敢えてこう記します)に敗れた家康は、命からがら奈良へと逃げ込みます。そして漢国神社の前で桶屋の主人に頼み、桶の中に身を隠す事に。やがて家康を追って奈良へとやってきた幸村ですが、家康を見つけられないまま引き上げていきました。かくして命拾いした家康は、感謝の意を込めて漢国神社へ甲冑を奉納したのだそうです。
…言うまでもありませんが、この伝承、史実とは異なります。ただし、大坂冬の陣の際に、家康は十一月十四日に二条城を出発し、翌日に奈良の漢国神社に参詣して鎧を奉納したのは事実だということです。おそらくは出陣前に表敬訪問したというのが真相でしょうね。それに、話の尾鰭が付いたものと思われます。
「真田幸村が家康を追い詰め、奈良に逃れた家康がかろうじて逃れた」という伝承は他にもあるようです。例えば、家康が春日大社の社殿に身をひそめ、幸村が社殿に一つずつ鑓を刺して家康を仕留めようとしますが、問題の祠は刺されることなく家康は難を逃れたという話も。
これらの話は、畿内における豊臣びいきの人々が、信繁の奮闘とその挫折を惜しんで作り上げ、語り継いだものなのでしょうね。そして家康の生涯が数々の危難に満ちたものであった事も、かえってこれらの伝承への説得力を人々が感じる要因になったとも考えられます。
【参考文献】
増尾正子『奈良の昔話 奈良町篇』まほろば出版局
牧村史陽『大阪城物語』創元社
池田源太『奈良市史 民俗編』吉川弘文館
大島建彦『日本の神仏の辞典』大修館書店
池田末則『奈良の地名由来辞典』東京堂出版
『法隆寺の至宝 第11巻』小学館
『日本大百科全書』小学館
『大辞泉』小学館
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漢国神社の中に、日本に饅頭をもたらしたとされる林浄因を祭った神社があります。
真田氏・徳川氏も出てきます。
大坂の陣に基づいた話もあります。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
研究が進むにつれ新説も次々出ている分野なので、異論・異説も多いかとは思います。
関連サイト: