世の中、様々な不正義が蔓延っている。そのように思われて義憤に駆られる人は少なくないと思います。それでも、闇雲に義憤に駆られたり、己の正義で他人を裁く事の危ういことは、何度も過去記事で申し上げてきたかと思います。
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今回は、損得勘定の面から、「正義を振りかざして人を裁く」事の落とし穴についてお話しようかと思います。
「己の正義で人を裁く」際は、ともすれば相手に「レッテル貼り」をすることになりがちです。というのは、
そういう言葉に悪いイメージをもっている人たちに対して、非常に有効に働く(野崎昭弘著『詭弁論理学』中公新書 38頁)
「どこがどう悪いのか、どの点は認めなければならないか」という細かい議論は吹きとばされて、「根本的にまちがっている」という結論が強調される(同書 38-39頁)
というわかりやすい効果があるためです。
しかし、こうした論法には意外な落とし穴があるようです。例えば、
「私の意見にさからうものは、悪魔だ」という二分法に対して、「そう、私は悪魔だ」と開きなおったらどうであろうか?(同書 41頁)
というケースが挙げられるでしょう。正義を振りかざすのが有効なのは、ある価値観を彼我・周囲ともに共有しているのが大前提となります。しかし、相手が、そして少なからぬ周囲の人々が、前提となる価値観に背を向けていたらどうでしょう。
悪魔というレッテルがそういう攻撃力を失っている場合には、開きなおられたほうがグッとつまって、眼を白黒させることになるであろう。(同書 同頁)
という残念な結果になってしまうのです。そして、言っている内容が正論かどうかに関係なく、誰かの「己の正義を振りかざして他人を裁く」姿に不快感を抱く人間は少なくありません。そうした姿を見せられ続けた結果、その人が掲げる「正義」そのものに対しても懐疑的になるケースも起こりうるのです。
そうでなくとも、「普遍的な正義」というのは意外と少ない。僕自身、生きていて、そう思わされることが多くなりました。「自分にとっての正義は、誰にとっても正義に決まっている」と信じて疑わない事自体が、傲慢かつ怠慢なのかもしれません。たとえその「正義」がどれほど美しくとも、耳触りがよくとも、そして自明に思われたとしても。
それを忘れてしまった時、上記のような思わぬ落とし穴に陥るかもしれない。そしてその時は、大事な「正義」そのものの価値も失墜する時である。だから、常に己の正義を心のどこかで懐疑的である心は、常に持たねばならないと思います。出来得る限り、他人にも己と異なる正義がある可能性を考慮し尊重する姿勢を見せるべきだと思います。そして、相手の「正義」が己のそれと相容れないものであったとしても、相手の人格を否定するような事はしないよう心がけるべきだとも思います。…難しいことですけどね。言うだけは言ってみた次第です。
【参考文献】
野崎昭弘著『詭弁論理学』中公新書
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