有力戦国大名・武田氏の衰亡を、最新の研究成果を盛り込んで詳細に論じた平山優先生の『武田氏滅亡』(Amazonはこちら、楽天ブックスはこちら)、売れ行きが好調なようですね。『応仁の乱』といい、歴史系学術解説書が関心を呼んでいるのは喜ばしい限りです。 武田勝頼は、亡国の主君として辛辣な評価を受けることも多々あります。しかし、彼が生き残りをかけて全力を尽くした事は否定のしようがありませんし、時には周辺勢力に存亡の危機を感じさせる程に猛威を振るうなど見事な力量を示した人物でもあります。
「あとがき」によれば、平山先生は、勝頼の滅亡について「運がなかった」(平山優『武田氏滅亡』角川選書より)というにつきると感じたそうで、
同時代の人々の間では、有能な人間であり、その滅亡は「運が尽きた」と認識されていた(同書より)
とも述べておられます。
さて、勝頼と同様、南北朝期の新田義貞もまた、悲運の将であり後世から無能とそしられることもある気の毒な人物です。ちなみに僕は
過去に、義貞が受けた批判について弁護を試みたことがあります。それはさておき、『甲陽軍鑑』品第五十七によれば、勝頼がその義貞について肯定的に評価した事があるそうです。『武田氏滅亡』でも言及された逸話ですので、既に御存じの方もおられるかと思います。
武田氏がいよいよ織田・徳川等の軍に追い詰められ滅亡に瀕した時のこと。新府の城を捨てて落ち延びざるを得なくなった勝頼一行を、駿河侍が臆病者と罵倒します。彼としては、武田氏はかつて駿河を治めた今川氏を滅ぼした仇敵という事で、ここぞとばかりに一言浴びせたかったのでしょうね。それに対し、勝頼は以下のように返しました。
侍ひと云ふ者は、一度はさかへ一度はおとろへ候事むかしが今に至るまで武士にめずらしからざる儀にて、既に源義朝の武勇は平の清盛に五双倍もましの人なれ共、義朝うち負給ふ、新田義貞も武勇は足利尊氏より倍なれ共義貞打負らるる運尽て時節到来なれば如此(『甲陽叢書第二篇 甲陽軍鑑 下』温故堂 270頁 旧字や仮名遣い等は一部改めています)
現代語訳がなくとも、大意はつかめるかと思います。
義貞の武勇が尊氏の倍だったかどうかはともかく、「義貞は弱くない、時運に恵まれなかっただけだ」という言葉は注目に値します。勝頼が義貞の悲運を自らになぞらえて発言したのは、改めて申し上げるまでもないでしょう。それにしても、ここで彼の名が出るという事は、「義貞が尊氏と比較しても器量に不足はなかった、天が与しなかったため滅んだに過ぎない」という見方が、当時としては相応に一般性をもって受け止められうるものだったと考えて好いでしょう。
上記の平山先生による勝頼評は、義貞にも当てはまりそうですね。
勝頼も、そして義貞も、敗れたとはいえ当時の人々にとっては一方の雄であり、勝者を大いに恐れさせた傑物である。そのことは、改めて心に刻みたいものです。
『武田氏滅亡』の読書中、勝頼の悲運に心痛める一方で、その過程で一人の南北朝愛好者として「勝頼さんありがとう」と心の内でつぶやいた我が身でありました。
【参考文献】
『甲陽叢書第二篇 甲陽軍鑑 下』温故堂
平山優『武田氏滅亡』角川選書
関連記事:
荻生徂徠が生きた時代には、既に勝頼を暗愚とする見方があったようで、徂徠はそれに一言反駁しています。
「名将による、過去の不遇な名将への再評価」話という点で通じるものがあるかと。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「新田義貞」
昔に書いたものなので、今から見れば至らない面もありますがあえてそのままにしています。
敗北必至の状況に直面した国主・首脳たちの苦悩を扱った社会評論社『敗戦処理首脳列伝』も、興味のある方は御参照下さい。