宗教的に生涯不犯・童貞を貫く難しさ~幸福につながるかは、その人次第~
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聖(セント)アントニウスはあの通りの道心堅固な生涯を送りながら、猶(なほ)側(はた)の人の目に見える迄性慾の煩悶に陥つてゐた。アントニウスの眼の前には毎夜のやうに裸の美人が映つて、聖者を誘惑しようとして有(あら)ゆる戯(ふざ)けた姿をして踊り狂つてゐたといふ事だ。(薄田泣菫『茶話 大正五(一九一六)年』の「性慾」より)
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2017年 03月 20日
どうも、松原左京です。『童貞の世界史』でも取り上げましたが、性愛を遠ざけた人々には宗教的理由を有する例も多くあります。 しかしながら、宗教的な理由での一生不犯は難しいものですし、それがその人にとって幸福につながるとは限らなかったようです。今回は、そうした話をしようかと思います。 平安末・鎌倉初期にかけての名僧・明恵は一生不犯を貫いたとされています。しかし、その生涯において、(耐え忍んだとはいえ)性欲の誘惑があった事も彼は正直に告白しています。詳細は『童貞の世界史』で述べていますので、ご参照いただけると幸い。 実際問題として、不犯を誓ってもそれを貫徹できない事もあるようです。『古今著聞集』巻十六は、こんな話を伝えています。あるところに不犯の尼僧がおりましたが、彼女の美貌に懸想した男僧が尼に化けて彼女に近づきました。やがて彼は尼僧から信頼を得るようになり、色々あった結果として二人は「ひまもなくしられければ」「女男になりてぞ侍りける」(『国史大系 第拾五巻』経済雑誌社 517頁)という有様になったとのこと。不犯は続かず、男女の仲になったという訳ですね。 また、何とか不犯を通したとしても、残念ながら、それが幸せや悟りに繋がるとは限らないようです。やはり『古今著聞集』巻十六からになりますが、こんな話も伝えられています。奈良に一生不犯の尼僧がおり、悪い噂が立つ事も無く立派な生涯を送った末に往生しました。その最期は、「まらのくるぞや」(同書 518頁)という言葉を繰り返して果てるというものだったそうで。性愛への執着が抑圧されながらも残っていたものでありましょうか。それにしても、語り草となるのが、清らかな生涯そのものではなく、この言葉。考えてみれば何とも酷な話です。ここで引用するのも晒し者にするようで気が引けはしましたが、既に有名な話ではありますし、人の業というものを知る上での好例でもあるのであえて引用した次第。 いずれも、性愛への執着を絶つことの難しさが、伺える話の数々です。これは仏教に限った話ではないようで、キリスト教に関しても同様な伝承はあるようです。例えば、 聖(セント)アントニウスはあの通りの道心堅固な生涯を送りながら、猶(なほ)側(はた)の人の目に見える迄性慾の煩悶に陥つてゐた。アントニウスの眼の前には毎夜のやうに裸の美人が映つて、聖者を誘惑しようとして有(あら)ゆる戯(ふざ)けた姿をして踊り狂つてゐたといふ事だ。(薄田泣菫『茶話 大正五(一九一六)年』の「性慾」より) という話もありました。また、女性の聖人にはキリストと精神的結婚をした事例もあるそうです。他にも、悪魔憑き・魔女裁判等の背景に性愛への抑圧の反動を指摘する説もあったりします。 一方で、『童貞の世界史』で取り上げたように、性格的に性愛への執着が薄く、ごく自然に性愛と縁遠い生涯を送った人々も少なからず存在します。考えてみれば、不思議なものですね。 思うに、生涯不犯を志すか否か、事実として童貞を貫くか否か、それ自体は、さほど問題ではないのでしょう。肝要なのはそうした表層の事象よりも、「性愛に振り回されず、それを苦悩の種としない」精神を有する事なのかもしれません。 参考文献: 『国史大系 第拾五巻』経済雑誌社 藤巻一保『性愛の仏教史』学研プラス 松原左京・山田昌弘『童貞の世界史』パブリブ 「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より 「薄田泣菫 茶話 大正五(一九一六)年」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000150/files/46615_50730.html) 関連記事: 童貞にせよ、酒にせよ、振り回されない事が大事? 結婚であれ不犯であれ、形式にあまりこだわる事は意味がないかも、というお話。 ※2018/3/21 文体がおかしい部分があり、修正。
by trushbasket
| 2017-03-20 22:34
| 松原左京
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