無名の人が、「名を竹帛に垂る」ための条件~後世に何かを残す、尽くす、あとは運~
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宋時代の中国には、儒教解釈の新説を唱える者は多数存在しました。周敦頤はリアルタイムにおいてはその中の一人にすぎませんでしたが、その系譜をひく朱熹が大きな影響力を有したが故に顕彰されるに至ったそうです。
次は我が国の事例。足利時代中期の歌人・東常縁は、当時多かった武家歌人の一人ではありました。しかし、生前の影響力は必ずしも強くなかったという話もあります。しかし、高名な連歌師・宗祇を弟子とし、『古今集』の講義を伝えた事が後々に意味を持ってきました。宗祇は、連歌のみならず和歌においても名声を求め、己の師であった常縁を定家以来の正統な口伝を伝えた存在だと喧伝。宗祇の弟子であった三條西実隆がこれを信じたため、後世において常縁の名が残ったそうです。
近代日本における事例です。自由律俳句の大家・荻原井泉水が、一高時代の同窓と語り合った際。以下のような話題が出たのだそうです。
ぼくらの同級の中で、大臣になったのも五六人はいるが、今日、世間ではもう名を忘れている。
今を時めく人たちもまだ数名はいるけれども、もう十年経つとそういう人の名も忘れられてしまうのではないか
そうだな、だが、あと十年経っても忘れられない名もあるよ。それは藤村(操)だ。あいつの名は、華厳の滝のあるかぎり忘れられないさ
それからもう一人いるよ。それは放哉だよ。
(いずれも荻原井泉水『放哉という男』大法輪閣 6頁より)
徳川前期の尾張藩士・朝日文左衛門は、生涯にわたり日記『鸚鵡籠中記』を残しました。彼自身は平凡な一般武士に過ぎませんでしたが、大変な筆まめで好奇心も強く、様々な事を長年にわたり日記に書き記しています。当時の社会情勢・風俗・風聞を詳細に記したこの日記は当時を知る上で貴重な史料であり、これによって文左衛門は後世に名を残したと言ってよいでしょう。
何でもよいから、後の世を意識して物を残す。自らの魂を刻み込んだものを、この世界に残す。考え方を表明した作品でも、日々の記録でも、仕事の業績でも良い。または次世代のために人を育てる。
残したものが、後世に研究価値を見出され評価されるかもしれず、目を掛けた次世代が大成しその余慶を被って顕彰されるかもしれない。そんな人生を送ったならば、無名に甘んじる日々であっても、「後世に名が残る」事に関する可能性は皆無ではなさそうです。針の穴を通すような、非常に小さな確率には違いないでしょうけど。
小川剛生『武士はなぜ歌を詠むか』角川叢書
荻原井泉水『放哉という男』大法輪閣
神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』中公新書
『大辞泉』小学館
「レトロゲーム紹介 第9回『里見の謎』 」
このゲームの主人公パーティには、「歴史に名を残す」のを動機に中途参戦する人もいます。
「人生とは、歴史とは~極限まで意味を縮めると…~」
そうした事を考えてもあまり意味がないのかも、という話。
「<読書案内>神坂次郎『元禄御畳奉行の日記 尾張藩士の見た浮世』 」
「Books&Apps」(http://blog.tinect.jp/)より
「「承認欲求の強い人」は認められず、逆に「承認欲求のない人」ほど評価されるという皮肉。」
(http://blog.tinect.jp/?p=37211)