我が国を代表する名探偵の一人に、金田一耕助というキャラクターがいるのは御存じの方も多いかと思います。彼は数多くの名優たちによって演じられ、最近にも映像化されるなど根強い人気を誇っています。この金田一耕助を生み出したのは、作家・横溝正史。さて、その横溝のエッセイを見ていると、興味深い一節がありました。
横溝が第二次大戦末期に疎開の途中、関西の義兄宅に立ち寄った時の事。この義兄、実業家として成功を収めた傑物だったそうですが、横溝にこのようにこぼしたそうです。
やれ、一億一心や、やれ、義勇奉公やちゅうたかて、そないなもん、戦争がこう長引いてしもたら通用せえしまへん。それにはやっぱり見返りが大切だす。働いたもんには働いただけの賃金出さんことには、ただ口先だけで生産増強、生産増強ちゅうたかて、そらドダイ無理ですわ(横溝正史『金田一耕助のモノローグ』角川文庫 Kindle版)
「やりがい」とか大義名分とかで煽り立てるだけでは、限界がある。働く側もカスミを食って生きる訳にはいかないのですし、物質的に報われるのでなければ励むにも励めないのは自然な事ではあります。これは、戦時中に限った事ではありますまい。現在の経済問題・労働問題を考える上でも忘れてはならぬ事です。
物質的な豊かさが精神面にもたらす好影響、という問題に関して横溝正史絡みの話をもう一つ。金田一耕助シリーズの中で最高傑作は何か、という論議になると必ず挙げられると言って過言でない作品に『獄門島』があります。本題に入る前に、この『獄門島』の基本的な世界観について、少し述べておきましょう。
兵士として第二次大戦を経験した金田一耕助が、復員中に病死した戦友の頼みで彼の実家を訪れます。その実家は、瀬戸内海の小島で網元として君臨する素封家でした。戦友が死に際に懸念した通りにその家で起こる奇怪な連続殺人。その謎に、金田一耕助が挑むことになる。そういう物語です。
さて、その作中で。亡くなった網元(※)は、以下のように評されています。
※金田一耕助の戦友から見れば祖父にあたる人物
嘉右衛門さんはべつに学問のある人じゃない。また、社会教育家でもないから島の風儀をよくしようと格別骨を折ったわけでもない。ただ、あの人は島を富ませてくれましたのじゃ。島の住民の生活を豊かにしてくれましたのじゃ。(横溝正史『獄門島』角川文庫 297頁)
だんだんくらしが豊かになってくると、人間おのずからつつしみが出てくる。せんにはとても及びのつかぬとあきらめていた、ほかの島々より、かえってこっちのほうが豊かになると、風儀のうえでもほかの島にまけまいと、おのずとはげみが出てくるものじゃ。こうして嘉右衛門さんは、しだいに島の気風をかえていったのですな。(同書 298頁)
彼が商売に励み、島の人々がその余光を拝する形で豊かになった。それが、島全体のモラル向上をもたらす結果となった。そういう事のようです。ちなみに、この評価を下した人物は、島でその網元と対立する家の当主。何と言いますか、公論は敵讐より出ずるにしかず、といった趣がありますね。
無論、『獄門島』はフィクション作品です。しかし、横溝が岡山を舞台にした作品群は、疎開時に見聞した現地のあれこれが作品の土台になっているとのこと。なので、上記の発言も現実の事象を反映している可能性は多分にありそうです。
そういえば、『孟子』には「恒産なきものは恒心なし」という言葉があります。すなわち正しい心を持つには、物質的な安定が重要という意味ですね。やっぱり、これは時代を問わない真理でありそうです。日本社会を動かす人々には、心に刻んでほしいものです。
【参考文献】
横溝正史『金田一耕助のモノローグ』角川文庫 Kindle版
横溝正史『獄門島』角川文庫
『大辞泉』小学館
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こちらも「恒産なきものは恒心なし」という話。
経済成長が契機で少子化が改善した事例についても触れられています。
※2017/7/20 日本語が少しおかしかったので、文章を一部再構成。加えて誤字を修正しました。