以前、「普通」である事は実は難しい、という趣旨について茶の湯大成者とされる千利休の逸話を引用しつつお話いたしました。
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「「普通」である事の難しさ~茶聖・利休の言葉から~」
ただ、その逸話の出典をその際には記さなかったので、ひょっとするとその点がご不満な方もおられるかもしれません。そこで、今回は出典についてお話させていただきます。
この逸話の出典はといえば、『南方録』です。『南方録』は、南坊宗啓が利休から学んだ茶の湯の心得などを記したものとされています。ただし、後世の偽書とする説もあるそうで、全面的に信用する事は危ういかもしれません。それでも、長らく茶の湯において重要視されてきた書物ですので、茶の湯における伝統的な思想を知る上では有用かと思います。
当該部分を引用すると、以下のようになります。
或人、炉と風炉、夏冬茶湯の心得、極意を承たきと宗易に問れしに、易こたへに、夏はいかにも涼しきやうに、冬はいかにもあたたかなるやうに、炭は湯のわくやうに、茶は服のよきやうに、これにて秘事はすみ候由申されしに、問人不興して、それは誰も合点の前にて候といはれければ、また易の云、さあらば右の心にかなふやうにして御覧ぜよ。宗易客にまいり御弟子になるべしと申されける。同座に笑嶺和尚御座ありしが、宗易の申されやう至極せり。かの諸悪莫作諸善奉行と、鳥窠(か)のこたへられたる同然ぞとの玉ひしなり。
(西山松之助校注『南方録』岩波文庫 14頁)
※「鳥か」の「か」は空冠に果
上記の「宗易」というのは、利休の事です。この場に同席していた「笑嶺」とは臨済僧・笑嶺宗訢(きん)(1490-1568)の事。大林宗套の弟子で、大徳寺住持となり同寺に塔頭・聚光院を開いています。
※「きん」は言へんに斤
現代語訳がなくとも、大体の意味は理解できるかと思います。大体は、
以前に述べた通りの内容です。ただし、訂正事項もあります。『南方録』をあたった限りでは、上記のように「利休七則」のうち3つしか述べていません。ただし、裏千家の公式ホームページでも「利休七則」については上記の際の話となっていますので、そうしたバージョンの逸話もあるのかもしれません。御存じの方がおられましたら御教示ください。
関連サイト:
「裏千家ホームページ」(http://www.urasenke.or.jp/)より
「お茶の心ってなんだろう」(http://www.urasenke.or.jp/textb/kids/kokoro/kokoro.html)
ここで注目すべきが、末尾で利休の教えと引き合いに出されているの言葉です。「諸悪莫作諸善奉行」すなわち、何であれ悪いことはするな、何であれ良いことは行えという昔の偉い禅僧の発言。どうやら、この逸話から、「普通」の事や「当たり前」の事が一番難しいのだ、という考え方を読み取るのは間違いではなさそうですね。
「普通」「当たり前」をきちんとできる事は実は決して「当たり前」ではなく、大いに評価されるべきことだ。改めて心に刻みたいと思います。
【参考文献】
『大辞泉』小学館
『世界大百科事典』平凡社
『日本人名大辞典』講談社
西山松之助校注『南方録』岩波文庫
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