明治前期の茶の湯の担い手たち~近代数寄者登場を控えた「夜明け前」~
|
ライフログ
メンバーの著作
連絡先/著作紹介/投稿一覧/等
連絡先
(【あっと】を@に替えてください) 管理人(現担当 貫名) trushbasket【あっと】yahoo.co.jp My(山田昌弘) phephemol【あっと】hotmail.co.jp (記載の無い執筆者への連絡は管理人経由で) ────────────── 著作紹介・試し読み ────────────── リンク(お世話になっている方々のサイト) 京都大学歴史研究会blog 社会評論社 パブリブ Cool Ja本 世界で通用する日本本 ハマザキカク本 Delusion 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ 小覇王の徒然はてな別館 西洋軍歌蒐集館 駄文にゅうす 史劇的な物見櫓 芝蘭堂 歴史の輪っ子 D.B.E三二型 その他にも、こちらに掲載したサイトにも御世話になっております。 ────────────── 投稿一覧 ────────────── 最近の歴史記事
────────────── 最近の雑記・日記・管理コメント
記事ランキング
ブログパーツ
以前の記事
カテゴリ
検索
外部リンク
最新のトラックバック
フォロー中のブログ
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
2017年 09月 24日
近代における茶の湯を牽引した人々に、「数寄者」と呼ばれた実業家茶人たちがいた。この事は、何度か取り上げてきましたし御存じの方も多いかと思います。さて、この「数寄者」が本格的に登場したのは意外に遅く、明治三十年代頃からなのだそうです。それまでは、西洋化の波の中、茶の湯はむしろ低迷期。大名という大きなパトロンを失ったのも原因でした。 茶人たちが、そうした中で懸命に生き残りを模索していたのは言うまでもありません。有名な例として挙げられるのが、裏千家の家元・玄々斎です。彼は、伝統文化軽視の風潮の中、茶の湯の地位向上を図るべく京都府知事に口上書を提出。また、正座になれない外国胤も視野に入れて、椅子に座ってできる立礼式点前を考案しています。むろん玄々斎だけでなく、他の流派の家元・茶匠たちも社寺への献茶を導入したり、地方の茶人たちを組織化するなどして茶の湯の生き残り方を探っていたのです。 さて、こうした時代において、茶の湯を担っていたのはどういう人々だったのか。それについて、齋藤康彦先生が論文で分かりやすくまとめていましたので、今回はそれを参照しつつお話させていただきます。 この時期、茶の湯が低迷期だったのを受けてか、茶会の記録も残存するものは少ないそうです。しかし山本寛(麻渓)『古今茶湯集』や安田善次郎(松翁)『松翁茶会記』などを参考に、明治前期における茶の湯愛好者たちは下記のように分類されるとか。 ・実業家 「近代数寄者」に数えられるだけあって、安田善次郎は図抜けて多くの茶会に参加し、また主催していました。他には、大倉喜八郎や渋沢栄一も相応に茶会へ顔を出しています。彼らのように、日本資本主義の建設に大きな役割を果たした人々も当時の茶会参加者には多々見られるようです。後に「近代数寄者」として数えられる馬越恭平(化生)や益田孝(鈍翁)らの名も、すでに見いだされています。 また、近代化に伴い新たに台頭した面々以外にも、千葉勝五郎や米林俵作といった商家出身の人々もいました。徳川時代の商人たちによる旦那芸以来の伝統ではないかと齋藤先生は推測しています。 ・旧大名・公家 かつて茶人たちのパトロンであった旧大名の人々は、この時期にも茶の湯で存在感を示しています。前田利鬯(虚心庵 旧加賀大聖寺藩主 薮内流)や脇坂正学(不備庵 旧播磨辰野藩主 宗徧(※)流)、松平親良(旧豊後臼杵藩主 石州流)などが挙げられます。他に、東久世通禧や渡辺驥といった公家・武士出身の官吏・軍人の姿も見られたようです。 ・家元・茶匠 薮内竹翠(薮内流)、小堀宗有(遠州流)、千宗左(碌々斎 表千家)、速水宗筧(速水流)ら家元による活動も活発でした。 ちなみに。速水流は、十八世紀に京で活躍した茶人・速水宗達によって開かれた流派です。彼は茶を裏千家の第八代又玄斎から学び、学問と茶の湯の合一を目指したとされています。禅宗のみにとどまらず儒仏道をも学び、修験道修行を通じて大徳利に柄杓・水指の役目をさせる点前を考案したりしたといいます。宗達は朝廷にも顔が効き、聖護院宮盈仁親王から「大日本茶博士」と称されたそうです。 主に当時の茶人は上記三グルーブに分けられるようです。新興実業家の姿が見え始める一方、旧来の商家出身者や旧大名・公家らがそれぞれグループを作り茶の湯の担い手となっていた。また、家元・茶匠たちも伝統の灯を消すまいと盛んに動いていた。そう見る事が出来そうです。 彼らを流派別に見ると、どうか。齋藤先生によれば、流派を特定できる茶人は限られていたようですが、内訳は不白流・宗徧(※)流・表千家・石州流が三人、遠州流・薮内流が二人、速水流が一人となるそうです。以前にご紹介した近代数寄者たちの流派内訳と比較すると、面白いかもしれません。なお、これに加えて松浦詮(心月庵 旧肥前平戸藩主 石州流鎮信派)も当時における旧大名茶人として有力な存在だったそうです。 ※ぎょうにんべんに扁で「へん」とよみます さて、旧大名や商家、そして家元らが守り抜いた茶の湯の伝統。それは、明治三十二年(1899)に「和敬会」が結成されたのを契機に一気に花開いていきます。安田善次郎・松浦詮らを中心として作られたこの結社は、三井・三菱系の近代実業家たちを多数茶の湯の世界に誘い込む事となり、近代数寄者の活躍を後押しする事となるのです。 【参考文献】 齋藤康彦「茶の湯の復興と近代数寄者の台頭」(『山梨大学教育人間科学部紀要』第10巻 2008年 287-298頁) 今回は、ほとんどこれを参照。 『日本人名大辞典』講談社 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版 『茶の湯便利手帳4茶の湯人物事典 略伝・ことば・逸話』世界文化社 八尾嘉男『図解茶の湯人物案内』淡交社 関連記事: 歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表: 「続茶の湯 数寄者たち」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/1999/991029.html)
by trushbasket
| 2017-09-24 12:15
| NF
|
ファン申請 |
||