九月場所の余韻が完全になくなる前に、
前回に引き続き相撲の話を。相撲と茶の湯は、いずれも「伝統的日本」を象徴する文化という共通点があります。そこで今回は、茶の湯を好んだ力士を二人、ご紹介しようかと思います。
まずご紹介するのは明治初期に活躍した第十四代横綱・境川浪右衛門。天保十二年(1841)に現在の千葉県市川市で生まれ、安政三年(1856)に角界入り。慶応三年(1867)に入幕を果たしました。明治三年(1870)に大関。いかにも第一人者らしく、相手の声で立って四つに組み、向こうの力を十分に発揮させた上で相撲をとっていたと伝えられます。
明治九年(1876)に天覧相撲が企画された際に京都五条家から横綱免許を与えられました。天覧相撲は内乱もあって中止となりましたが、相撲家元であった吉田司家も後に彼の「横綱免許」を追認。かくして、現在も公認の「横綱」として数えられるに至っています。明治十四年(1881)に現役を引退、同年に行われた天覧相撲で土俵入りを披露しています。幕内成績は118勝23敗75分5預。
その後は相撲長(現在でいう相撲協会理事長)も務めましたが、明治二十年(1887)に病死しました。
茶の湯・俳諧を嗜む風流人で、人格者として信望を得ていました。本所一ツ目に住んでいた事から「一ツ目の大名」と呼ばれたそうです。もっとも、いずれの流派を学んだのか、といった詳細については手持ちの文献では調べ得ませんでした。
関連サイト:
「相撲の歴史ナビ」(http://sports.geocities.jp/sumou_caffe/index.html)より
「境川 浪右エ門」(http://sports.geocities.jp/sumou_caffe/sakaigawanamiemon.htm)
境川の詳細はこちらにも。茶の湯についても言及されており、現役中は部屋の脇、引退後は生家に茶室を設えたそうです。
次に、八十嶋富五郎についてお話します。八十嶋は境川より前の、十八世紀後半から十九世紀前半にかけて活躍した力士です。平幕どまりではありましたが、文政二年(1819)に六十歳で没するまで四十四年にわたり現役力士として土俵に上がっていたそうです。現在ほどスポーツ・格闘技としての側面が確立していなかったであろう時代とはいえ、大したものですね。
この八十嶋もまた、茶の湯を好んだとされています。例えば、勝川春英が描いたとされる、八十嶋が点前をしている錦絵が残されています。斎藤月岑『増項武江年表』には「角觝八十島富五郎、不白の門に入りて茶事をよくす」(斎藤月岑『増項武江年表』国書刊行会 204頁)とあり、江戸千家・川上不白から茶の湯を学んだ事が分かります。茶人としては「東西庵」という号を名乗ったそうです。
なお歌の心得もあったらしく、ある茶席で粗相をして茶碗の端を欠いてしまった時に
点てる茶は四十八手の外なれば ついに茶碗の端を欠くらん(『淡交』平成十五年三月号 淡交社 44頁)
と詠んでいるそうです。
【参考文献】
『横綱歴代69人』ベースボール・マガジン社
『淡交』平成十五年三月号 淡交社
斎藤月岑『増項武江年表』国書刊行会
『日本大百科全書』小学館
『日本人名大辞典』講談社
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